「スプレキュア、健康薬、気功と長い回り道をして、広尾で子宮内膜症を克服しまし た」
レポートNo.12 

岡田清子(36歳)
●スプレキュアを半年使う
生理痛が気になるようになったのは、25歳の頃からです。お腹の痛みだけでなく、出血も多くなって、生理日が近くなると憂欝な気分になりました。だんだん痛みが強くなるので、婦人科で診てもらったところ、「子宮内膜症」と言われましたが、それでも、それから3〜4年は仕事を1日休む程度で凌げていました。いよいよひどくなったのは30歳を迎える頃です。ちょうど結婚が決まったこともあって、婦人科でもう一度きちんと診てもらったほうがよいと思い、父が親戚のつてを通して探してくれた病院に行きました。女医さんがやっている個人病院でした。その医師の診断も子宮内膜症とのことでしたが、治療はせずに、「大きな病院で診てもらってください」と慶応病院を紹介されました。

紹介状を持って訪ねた慶応病院の先生は子宮内膜症の権威ということでしたが、この先生に診ていただいたのは初診のときだけで、実際の治療に当たっていたのは別の若い先生でした。

慶応病院での治療はスプレキュアでした。1日に3回、シュッシュッと点鼻するホルモン剤で、半年間使いました。たしかにスプレキュアを使っている間は生理が止まっていますから、あんなに痛かった生理痛とも無縁の生活です。人間ってとりあえず苦痛から解放されると、もう治ったつもりになってしまうもので、「スプレキュアって効くんだなあ」と思っていました。

ただ、気になっていたことがないわけではありません。同じ頃に歯医者に通い始めたのですが、初診の際に「今、婦人科のほうでスプレキュアを使っています」と告げたところ、歯科医は「え?!」という表情をして「あれは肝臓を痛める…」と言いました。慶応病院で処方してくれている薬に間違いがあるはずない、と頭の中で歯科医の言葉を打ち消してみたものの、ずっと心に引っかかっていたことも事実です。


●のぼせ・体重増加・全身倦怠
半年たってスプレキュアの使用を止めた後、思いがけないことが2つありました。ひとつは体重が5キロ増えてしまったこと、もうひとつは止めて2カ月後に始まった生理が前よりもっと辛かったことです。「治ったみたい」と感じていたのは思い違いもいいところで、お腹はものすごく痛いし、出血量は多いし、塊になった血液も増えたように思いました。

「これはおかしい」と、すぐまた慶応病院に行きました。スプレキュアを止めて間がないということで、今度はスプレキュアより弱いホルモン剤(錠剤)をくれました。ところが、これを飲み始めたら、今度は絶えず「のぼせ」のような不快感があって、体調が思わしくありません。「のぼせ」はスプレキュアを使っていた時にもありましたが、今度は全身が気だるく、看護婦をしている友人に「顔色が悪いよ。自律神経失調症じゃないの」と言われたのもこの頃です。「薬が合わないのかもしれない」と、また慶応病院に行きました。すると、診察室に入っていった私の顔をみるやいなや、若い医者は「今、服用している薬はすぐに止めてください」と言いました。きっと医者の目にも私の顔つきは尋常ではないと映ったのだと思います。

「病気を治すために病院に来ているのに、どうしてこういうことになるの?」と、納得できない思いでいっぱいになりました。医師の説明も私の疑問を解消するにはほど遠いもので、「もうこんな治療を受けるのはよそう」と意を決して診察室を出ました。


●「死にたい」と思ったことも
そういう状況のなかで結婚式を済ませ、主人の両親と同居の新婚生活が始まりました。楽しいはずの新婚の半年は、今思い返しても、辛く苦しいものでした。ホルモン剤の服用でホルモンのバランスが崩れたまま、体調はなかなか回復しません。生理時の痛さはますます強く、何をすることもできないほどなのに、義父母の手前、寝込むこともできない。嫁の私が子宮内膜症だと知ったら、義父母から何と言われるか…、そのことにもおびえていました。

慣れない嫁ぎ先での生活、最悪の体調、生理の辛さ、それらが精神状態をますます悪くして、「死にたい。死ねたら、どんなにラクだろう」と思ったことも1度や2度ではありません。マンションの6階から下を見おろして「ここから飛び降りれば、何もかも終わる」と思ったものです。

結婚して半年目で主人の転勤が決まって、義父母と別居することになったのが転機になりました。もし、あの追い込まれた精神状態のまま義父母との同居が続いていたら、本当に死を選んでいたかもしれません。

慶応病院でのホルモン治療に絶望していた私は、別居を機に、友人に勧められて食事療法と健康薬を飲むこと、気功の先生にかかることの3つを始めました。もう病院なんかに行くものか、という気持ちがあったからで、慶応病院に行くのを止めてから3年あまりは全く病院から離れたところで自分なりに治療を続けていました。

健康薬というのは、ビタミンA、ビタミンB群、ビタミンC、ビタミンE、カルシウム、ミネラルなど人間が必要とする栄養素を混じりけのないかたちで錠剤にしたもので、1カ月で相当量飲みました。値段のほうもバカにならず、半年で約100万円。実家の父からの援助がなければ、とても続かない治療で、その割には効果がないように感じられて、これは半年でやめました。

食事療法も健康薬も対症療法というよりは病気になりにくい体質に変えるというもので、すでに進行している内膜症の症状の緩和という点では目に見える効果は得られませんでした。気功の先生には2年半通いました。「子宮は大きくなっているが、気功で治せます」という先生の言葉に藁をも掴む思いで通い始め、週に2、3度のペースで気功をしてもらいました。1回の料金が1000円と安かったことや先生が女性で親しみやすかったことも、頻繁に通った理由です。先生がお腹に手をかざして、子宮に「気」を入れて、血液の流れをよくするという治療ですが、たしかにその直後はラクになるのです。


●箸も持てない痛さ
でも、気功の先生のもとに通っている間も、生理は重くなる一方です。生理の間、3日3晩眠れず、3日で体重が3キロ減ったこともあります。食事の支度はおろか箸を持つこともできず、ただ身体を横たえて痛さに耐えていました。トイレに這うようにして行き、便座に腰をおろすのもやっとの思いでした。出血はますますひどく、1回の生理で塊になった血がどんぶりに1杯ほども出ました。主人には「生理中は家のことが何もできなくてゴメンね」と言って、ただ痛さに耐えていました。気功の先生に「痛み止めを使ってはいけない」と言われていたからです。そんな私を見て、主人は病院に行けば最終的には子宮全摘になることも承知で「早く病院に行け」と言いました。こんな症状が続くのであれば、子宮全摘も仕方ないと思ったようです。

気功を始めて1年たち、2年たってもいっこうに症状は軽くなりません。先生も「変ねえ。子宮は小さくなっているのだけれど」と言い出す始末です。この頃になって、私自身も「気功では治らない」と確信するようになり、もう1度真剣に医者を探さなければ、と思い始めました。

テレビで見た、全摘をせずに子宮筋腫や子宮内膜症を治すという女医のクリニックにも行きました。ところが、一通りの診察の後でその先生が言った言葉は「スプレキュアをやってみましょう」。反射的に、冗談じゃない!と思いました。同じ女性でありながら患者にスプレキュアを勧めるその医師に怒りさえこみ上げてきました。


●こういう先生がいるんじゃない!
本屋や図書館にも足を運んで、手がかりになるような本を探しました。そして、図書館で出会ったのが斎藤先生の『子宮をのこしたい10人の選択』です。すぐに借りて家に持って帰り、毎日毎日、何回も何回も読み返しました。私と同じように内膜症で苦しんでいた患者さんが、健康を取り戻し、子宮も温存している。その驚きは「こういう先生がちゃんといるんじゃない!」という喜びに変わりました。もう迷いはありませんでした。

手術を受けたのは95年10月9日の月曜日です。貧血がひどかったために、全身麻酔で輸血を受けながらの手術でしたが、麻酔が醒めた後の傷口の痛さは「えっ?!こんなもの?」と思うほどで、生理中の痛さのほうがずっとずっと辛いと思いました。

斎藤先生に出会うまで、長い回り道をしました。ホルモン治療、健康薬、気功とずいぶんお金も使いました。でも、それらは私自身が納得できる先生に出会うために必要なプロセスであったと思います。

現在、子宮内膜症の治療はホルモン剤によるものが中心で、手術による根治治療は不可能とされていると聞きます。でも、私は斎藤先生の手術によって、子宮内膜症を克服し、子宮も残していただきました。以下の写真は、私の術前、術後のMRIです。これを見ていただければ、手術によって、子宮が正常に戻っていることがわかってもらえると思います。
 
主な血液検査のデータ

診断:子宮腺筋症

術前 術後
CA-125 220 37.9
RBC 368 470
Ht 31.3 40.6
Hb 7.8 13.3

術前のMRI術後6ヶ月のMRI術後2年のMRI
術前術後半年術後2年
術前術後半年術後2年



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