「残したかった子宮を残してもらって、来年はニュージーランドに夫婦で留学します」
レポートNo.14 

田代公子(38歳)
●吐き気も痛みも回復へのプロセス
9月1日に手術をしました。腺筋症の病変部を摘出していただいて、経過は順調です。4日の木曜日にはお腹から出ていた管(腹腔内の血液や滲出液を体外に排出するための管)を抜いて、術後初めてシャワーを使いました。手術する前は、本当に4日目にシャワーができるようになるのかなあ、と思ったりもしたのですが、シナリオ通りというか、シャワーしても十分に大丈夫なほど回復しているのです。

手術した夜は、痛みより吐き気のほうが強くて、一晩、吐き気をこらえるのに必死でした。手術のあと翌朝までは「身体を動かさずに、頭もまっすぐ上を向いた状態で寝ていてください」と看護婦さんに言われるのですが、上を向いているとますます気持ち悪くなるので、えーい、横を向いてしまえ、と頭を動かして吐き気を紛らせました。手術した当夜にあまり頭を動かすと、腰椎麻酔の影響で4〜5日後に頭痛をもよおすことがあるのだそうです。大丈夫かな、と少し心配しましたが、幸い何事もなくてホッとしています。

吐き気が少しおさまると、今度は痛みを強く感じるようになりましたが、この頃には「もう胃腸が動き出しているので、今は痛み止めをする段階ではないです。もう少しの辛抱。がんばって!」と看護婦さんに言われて、眠れぬまま朝を迎えました。

手術当夜の辛さは人それぞれなのでしょうが、「今は苦しいけれど、これを乗り越えたら楽しくなる」と思い、吐き気も痛みさえも一段階ずつ楽しさに向かっていくプロセスなのだと思うようにしました。


●子宮全摘か、スプレキュアか
残したいものを残してもらったのだから、これくらい我慢しなくちゃ。入院中、痛い思いをするたびにそう自分に言い聞かせました。それほど子宮を失いたくなかったのです。

私は4年前に一度、子宮筋腫の核出手術を住まいのある大阪で受けています。33歳で結婚して、その翌年に手術。妊娠を望んでいましたから、子宮を残してもらうことを約束しての手術でしたが、筋腫核は全部取りきったというお話でした。

でも、その後も妊娠する気配はなく、1年経ち、2年経つうちに、生理時の出血がだんだん多くなってきました。生理が始まって2日目、3日目あたりは特にひどくて、その翌日は貧血でとても起きていられる状態ではなく、白い顔をして寝てばかりいました。生理期間もだんだん長くなって、10日間も出血が続きました。

核出手術をした病院で定期的にがん検診を受けていましたので、そのつど術後の経過を見てもらっていましたが、8月の検診で思いがけない宣告を受けました。「出血がひどいのは、おそらく子宮筋腫が再発したからでしょう。もう核出手術はできないから、子宮全摘手術をするか、スプレキュアをするか、9月までに決めてきてください。ただし、スプレキュアは副作用があって、仕事など日常生活に多少影響が出るかもしれません」と言うのです。

 全摘」という宣告は唐突でした。しかも、もう一方の選択肢であるスプレキュアは副作用が強いという。どうしよう、全摘もスプレキュアも、そのどちらもイヤだ…、頭が真っ白になって、涙があふれました。


●夫と上京、手術を即決
私は大阪でコンピュータ学校の講師をしています。中高年や主婦の人たちにワープロ機能の文字入力や文書作成などの基礎を教えるかたわら、時々通訳の仕事もやっています。

全摘かスプレキュアかの選択を迫られて、涙ながらにパソコンに向かいました。インターネット上に何か子宮筋腫に関する情報がないだろうかと思ったからです。

ありました!広尾です。「子宮」でアクセスすると、たしかに婦人科のクリニックはいくつも名前が出ているのですが、医療内容の紹介も含めて、これほど充実したホームページをもっているところは他にはありませんでした。

 ホームページに載っていた斎藤先生の本『子宮をのこしたい 10人の選択』を読みたいと思い、本屋で探しましたがどこにもありません。それなら、直接、先生に会って診ていただこう、と電話で予約をとりました。夫と二人で初めて広尾を訪れたのは8月19日の火曜日のことです。

先生の診断はおそらく腺筋症だろうとのこと。たまたま一人空きのあった9月1日の手術日に手術してもらうことを、その場で決めました。夫も先生の説明を聞いて納得し、すぐに同意してくれました。大阪に帰って親や友人に相談すると、いろいろな外野の意見に惑わされて決心が鈍ると思ったことも、即決した理由です。


●MRIとCTを持って、再び上京
初診から手術までは2週間もありません。手術前にもう一度大阪から検査のために上京するのは大変なので、大阪でMRIやCTを撮ってはどうだろうか、という斎藤先生の提案で、大阪でお世話になっていた総合病院の内科の先生に頼み込んでMRIとCTを撮りました。その先生は、私の生理が重いことを知って「一度きちんと検査したほうがいい」と言っていたのです。

その言葉を盾に、「先生は検査をしなさいとおっしゃいましたよね。だから、お願いします」とかなり強引に頼みました。幸いだったのは、その総合病院には婦人科がなかったことで、もし婦人科があれば当然そちらに回されていたと思います。
MRIとCTを持って、母と再び上京。手術は、前に受けた核出手術の際にできた癒着を剥すのに時間がかかったそうで、3時間近くかかりました。手術の途中で、よかったら手術室へどうぞ、と母が呼ばれたそうですが、母はコワクて、とても見に来れなかったそうです。

手術中に指先が冷たくなったので、看護婦さんの手を求めて宙に指先を泳がすと、看護婦さんがしっかり手を握ってくださいました。その手の温かかったこと。無理を言って、ずっと握っていてもらいました。この温かさに通じる親身なケアは、入院中変わることがありませんでした。


●健康を取り戻して、夢の実現へ
田代夫妻9月6日の土曜日に予定通り退院しました。夫が金曜日に迎えかたがた見舞いに来てくれた時には、もう普通に歩き、シャワーも使っていましたので、その回復ぶりにびっくりしていました。前回、大阪で核出手術を受けた時とは回復のスピードが全然違う、と夫も思ったそうです。写真はその時に広尾のリビングで写したものです。私たちには夢があるのです。来年、二人でニュージーランドに留学します。私は現地語のマオリ語を勉強し、英語教師である夫は将来の移住に備えて、現地のことをいろいろリサーチする予定です。

その夢の実現に向けて、ニュージーランドに出発する前に3カ月間アメリカのシアトルで語学研修する計画ですが、それに先駆けて、11月に夫と一緒にシアトルに学校の下見に行ってきます。シアトルにはかつて私が通訳したことのある友人たちがいて、私の入院中にはインターネットで激励のメールを送ってくれました。今回、夫が広尾に来る時に、それをプリントアウトして持って来てくれて、とても嬉しかった。シアトルで彼らに会って、元気になった姿を見てもらうのを楽しみにしているところです。

こんなに前向きになれるのも、広尾で残したかった子宮を残して、健康を取り戻したからなのです。斎藤先生に感謝しています。

ひとつだけ気がかりと言えば、9月までに全摘かスプレキュアか決めてくるように、と言われていたこちらの先生にどう報告しようかな、ということ。もちろん、広尾を退院する時にいただいたファイルを持って、子宮保存手術を受けて来たことを包み隠さず話してくるつもりですが、こちらの先生がどのような反応を示されるか興味があります。同じ婦人科のドクターとして、ぜひこういう手術があることを認めて、どうしても子宮を残したい患者の声に応えてくれるようになってほしいと思っています。これは私ばかりでなく、広尾で手術を受けて子宮が救われた女性みんなが感じていることだと思います。

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