「手術して3年後に結婚。今、妊娠24週です」
レポートNo.18 

南 裕子(38歳)
●妊娠がわかって
南ご夫妻 in オーストリア今、妊娠24週です。先日、妊娠の報告をしに主人と一緒に広尾に出かけました。妊娠がわかってからは自宅の近くの大学病院で定期検診を受けていますが、改めて斎藤先生に超音波で胎児の様子を見ていただいて、感激もひとしおでした。

「赤ちゃんは男の子だよ」と先生が教えてくださいました。20週を過ぎれば性別がわかるのだそうです。「おなかの中にいるうちから、○○ちゃんと名前で呼んで話しかけるといい子が生まれるそうだよ」と先生。さっそく主人と生まれてくる子の名前を考えています。

20週を過ぎた頃から、おなかも目だつようになって、いよいよ妊婦スタイルになってきていますが、不思議なもので、町を歩いていても、おなかの大きな女性や小さな子ども連れの人に目が止まるようになりました。これは妊娠前には気づかなかったことです。

結婚して妊娠するなんて、1年前には思ってもいませんでした。まして、子宮筋腫があることがわかってあちこちの病院を渡り歩いていた4年前には、このような幸せを手に入れることができるなんて想像もできませんでした。
今、つくづく斎藤先生に手術をしていただいてよかったと思います。先生への感謝と、とにかく元気に無事に生まれてくれれば…という祈るような思いで、2月16日の出産予定日を待っています。


●生理が止まらなくなった
子宮筋腫がわかったのは4年前の秋です。それ以前には特に生理の異常を感じることもなかったのですが、突然、生理が止まらなくなったのです。生理が始まって10日経っても出血がおさまる様子がないため、近くの婦人科に行きました。診断は子宮筋腫とのことで、血液検査の結果では貧血もありました。

とりあえず生理を止めるために、止血剤とホルモン剤を処方してもらって帰りましたが、その時の医師に「止血剤だけでは止まりませんよ」と言われました。本当にその通りで、ホルモン剤を服用するとピタリと止まるのです。

次の月の生理も状況は同じでした。今度は2週間経っても生理が終わらず、また止血剤とホルモン剤のお世話になりました。

「これは間違いなく子宮筋腫だ」と納得した理由のひとつに、母が子宮筋腫だったということがあります。母娘の体質は似ると言われますが、母は30代後半に全摘手術を受けているのです。母の時代にはもちろん斎藤先生もいらっしゃらなかったし、「子宮筋腫イコール全摘手術」を母も当たり前のこととして受け入れたのだと思いますが、私自身が子宮筋腫の患者になって病院を転々とした経験から感じたのは、今なお最終的には全摘手術によって解決をはかろうとする医療機関がほとんどであるということです。


●納得のいく病院を探した
地元で一番大きい総合病院では、当然のように「症状を解消するには全摘しかない」と言われました。子宮全摘をした母を見ている私にとって、これは辛い宣告でした。手術後の母は体調がはかばかしくなく、毎月、病院でホルモン注射を受けていたことを子供心に覚えていましたし、何よりも未婚の私が子宮を失うなんて絶対に受け入れられないことでした。

女医さんなら同じ女性として子宮を失いたくない気持ちがわかってくれるだろうと、婦人科の女医さんを頼って訪ねた都心の病院では、病名こそ地元の病院と同じでしたが「しばらく様子を見ましょう」と言って、積極的な治療は何もしてくれませんでした。

ようやく納得のいく説明が得られたのは、自宅から電車で4駅目にある帝京大学医学部付属病院でした。ここの先生は検査の後で「筋腫そのものはそれほど大きくはないが、子宮の内膜腔に突出しているので、核出手術で全部を取りきるのは不可能です。でも、まだ若いし未婚でもあるので全摘手術はせずに、取れるところだけ取って、妊娠の可能性を残しましょう」と説明してくれました。ただし、「その場合でも、妊娠の可能性は30パーセント。手術によって内膜がはがれ落ちることが考えられるので」とのことでした。

30パーセントという数字に落胆するか、それとも希望をつなぐか。私はたとえ30パーセントでも可能性が残されるのなら、そこに賭けて手術してもらおうか、と一度は帝京大病院での手術を考えました。でも、最後のところで踏み切れなかったのは、ひょっとしたらもっと良い選択肢があるのではないかという思いを断ち切れなかったからです。


●子宮を失いたくない一念で
あの頃、あちこちの病院にかかっていた私は、週のうち2回も病院通いのために職場を抜けなくてはならない状態でしたが、幸い職場には既婚で子供のいる女性が多く、「病院を優先していいから」と理解してくれたのはありがたいことでした。ただ、若い同僚にはあまり知られたくないという気持ちはありました。

皮肉なもので、子宮を失うかもしれないという現実に直面して初めて自分の人生について考えました。それまでは将来結婚することも、妊娠・出産することも成り行き任せ、どちらでもいいと思っていたのですが、子宮筋腫がわかってからは、どうしても子供を生みたい、そのためには絶対に子宮を失いたくないという強い気持ちに変わりました。それがなかったら、斎藤先生に出会うことも、結婚して妊娠することもなかったと思います。

斎藤先生の本『子宮をのこしたい 10人の選択』に出会ったのは、病院通いのある日、自宅の一番近くにある本屋にふと立ち寄った時のことです。さほど大きくもない本屋に並んでいた先生の本に吸い寄せられるように手を伸ばし、すぐに買って帰りました。

本を読んで「ここしかない」と思った私は、本の巻末の「診察から退院まで」に紹介されていた和泉信子さんという患者さんに電話をしました。広尾に電話をする前に、まず患者さんの話を聞いてみたいと思ったのです。和泉さんは千葉市にある美容院のオーナー美容師さんで、退院してから元気にお店で仕事をしていらっしゃる写真に添えて、お店の名前が書いてあったのです。

和泉さんが同じ千葉に住んでいるという親近感もあり、お店の名前を頼りに電話番号を調べていきなり電話した私に、和泉さんは親切にいろいろな質問に答えてくださいました。和泉さんのお話を聞いて、広尾で手術してもらおうという決心は一層深くなりました。


●手術、結婚、そして妊娠
94年の新年が明けてすぐ、1月4日にMRIなどの術前検査を受け、10日に手術を受けました。この日は新年になって最初のオペ日でした。

摘出された筋腫は120グラム。グラム数こそ多くはありませんでしたが、子宮筋腫全体が子宮内膜腔内に大きく突出した粘膜下筋腫でした。「子宮内膜は切開していないので、将来の妊娠には影響ありません」という先生の言葉を聞いて、私も母もどんなに嬉しかったか。母は私が同じように子宮を失うかもしれないということを誰よりも心配し、悲しんでいましたから、子宮が救われた喜びはひとしおだったと思います。

下腹部の切開部分は5センチと小さく、手術中の出血も64ccとごく少量でしたので、術後の経過は順調で、その週の土曜日には退院。2月には職場復帰し、元気になった私を見た職場のみんなからは「執念で病院を探した結果だね」と言われました。

さて、最後に主人との出会いから結婚、妊娠までをお話します。友人の紹介で初めて主人と会ったのは昨年の秋。今年に入ってトントン拍子に結婚の話が進んで、4月15日に結婚式を挙げました。結婚が決まって、主人には広尾で手術を受けたことを話し、退院の時に先生からいただいたファイルを全部見せました。手術の後で、妊娠に影響はないと言われてはいましたが、主人には「結婚しても妊娠できるかどうかはわからない」と正直に話しました。「それでもかまわない」という主人の言葉がなかったら、はたして結婚に踏み切っていたかどうか…。斎藤先生がおっしゃっていた「結婚が決まったら、彼には手術のことをきちんと話してあげるから、いつでも連れていらっしゃい」という言葉も、支えになりました。

主人がよくわかってくれて、二人で斎藤先生をお訪ねする間もなく、結婚して2カ月後に妊娠していることがわかりました。その時の心の底から沸き上がるような嬉しさを今もはっきり思い出します。さっそく先生に手紙でお知らせしましたが、すぐに「幸運を呼び寄せたのはあなたの力」というお返事をいただきました。3年も前の患者のことは覚えていらっしゃらないだろうと思っていたのに、「超音波で赤ちゃんを見てあげるから、ご主人と遊びにいらっしゃい」とまで書いてくださって、本当に嬉しかったです。

広尾で手術した後に妊娠したケースはこれまでに80例を超えると聞きました。選択を誤れば当然のように全摘されていた子宮に、こんなにもたくさんの新しい生命が宿っているという事実に感動しています。
術前のMRI術後のMRI
術前のMRI術後のMRI


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