「一人でも多くの同じ病気の女性が救われることを祈って」
レポートNo.32

Miss.SM(42歳)
私が広尾メディカルで子宮筋腫の手術をしようと決心したのは98年の3月に初診で斎藤先生にお目にかかった当日だった。「ああ探していたものがここにあった。」という喜びと安堵の気持ちで帰途についたのが昨日のことのようだ。手術から約1年、私の人生は公私ともに大きく変った。
●広尾メディカルクリニックに出会うまで
広尾メディカルクリニックの情報は友人がインターネット検索で3月中旬に見つけ教えてくれた。子宮筋腫その物に関する情報は私もインターネットでチェックしたが、病院に関する情報は主に出版物や友人の紹介に頼っていた。広尾メディカルクリニックのホームページにアクセスするとクリニックにおけるレーザーを使った手術などの情報に加えて、MRIを始めとする多くの患者さん達の情報が載せられていることに驚いた。私は広尾メディカルクニックのホームページに出会うまでに、すでに3ヶ所の大学病院を訪れていた。

3月に通院を再開したのは97年の冬、長年通いつづけているエステティックサロンでオイルマッサージを受けていた時、担当のエステティシャンからこの腹部の状況は尋常ではないと言われ、とうとう解決するのは今しかないと思ったからだった。

10年近く前に卵巣膿腫ではないかとの人間ドックの結果から、J大学病院を紹介されCTスキャンをかけたところ卵巣膿腫ではなくテニスボールより一回り小さい子宮筋腫だと告げられた。当時子宮筋腫の知識が乏しかった私は医師の「これは良性ですから。ほっておいて様子を見ましょう。薬も何も今は必要ありません。来年また診てみましょう。」の言葉に治ったわけではないのにほっと胸をなでおろした。それから数年はチェックし続けたものの、医師からの言葉はいつも同じ、しかも耐えられないような生理痛や出血といった自覚症状はなかったため、私自身の生活の忙しさから子宮筋腫に対する対応は薄れていった。

30代の後半は、外資系の総合化学医薬会社でドイツ、アメリカへの頻繁な出張や、日本における事業立ち上げの責任に追われていた。グローバルなリエンジニアリングで会社自体が大きく変革する中、日本経済を中心にアジア経済の落ち込みがさらに仕事のプレッシャーをよんで、ここ数年はともすれば自分の体のことは後回しにされていった。しかも仕事をしながらMBAのコースをとった97年、98年の、二年間の経営修士課程の間は終始息をつく間もない生活を送ることとなり、心身ともにきつくて当然だと思っていた。結果、ふと気がつけば自分の体の異常を他人に指摘されるまでになっていたのだ。

細胞は二乗で増殖する。最初は小さな腫瘍であってもそれはカーブを描いて増えて行くからはっと気がつけば最後は難しい選択を迫られるようなことにもなりかねない。実際、エステティシャンに指摘されてから3月までの間に自分でも見下ろしてみればお腹の形がどんどん変ってきたという自覚があった。

もっとも、はっと気がつけばというのは詭弁であって、過去に大きな椎間板ヘルニアの手術をしたことがあったため、自分の体に再びメスは入れたくない、あんなに長く苦しい入院生活はもうごめんだ、医師が言ってくれたようにこれはまだ大丈夫だろう、でもじゃあ一体いつまで、筋腫が小さくなるからと服用しているこの漢方薬は効いているのだろうか、といったさまざまな葛藤が何度か胸をよぎっていたのは事実だった。

3月上旬に再診に訪れたJ大学病院でも友人の紹介で訪れたT大学病院でもほんの数分の診察とやり取り、内診、細胞診で必ず、「ここまで大きくなったのでは子宮全摘ですね。
臍の上から縦に切って取り出して、3週間の入院。」と言われていた。

友人がオーナー一家ということもあって紹介されたJ医大では友人の弟さんである大学理事長がわざわざ会いに来て下さり、産婦人科の教授を紹介する労をとってくださった。その時、理事長は待合室で病院の壁をたたきながら「大丈夫、子宮は取ってしまうのは簡単だから。
ほらこういう壁だって一部塗りなおしたり取り替えたりは手間だけど、全部取り外すのは楽でしょう。そういった手術だし短い時間で済むから安心しなさい。子宮は取ってもぜんぜん大丈夫なんですよ。」と語った。

診察をした教授はCTスキャンでお腹の状態をチェックした後、「じゃあ、手術はいつにします。」とだけ聞いた。私が「全摘の手術ですか。」と聞くと教授は「MRIをとってみないと細かいところまではわからないけど、この大きさでは全摘ですね。悪いところを取っていたんじゃ、子宮自体がなくなっちゃう。ま、ご本人がどうしても残したいと言うならそうしますけど、すぐ再発する可能性がありますからね。縦に切るから術後の状況にもよるけどだいたい三週間くらいの入院ですね。MRIの予約を入れて帰ってください。」とだけ語ってカルテに向かってしまった。

その教授は某メディカル雑誌で患者の希望も考慮に入れて筋腫だけを取り除く子宮筋腫核出術を前向きに行っていると紹介されている人物だった。MRIはそのJ医大でとったものの、そこで手術をしようという気持ちは沸いてこなかった。

また別の銀座にあるクリニックを訪れた時はもとJ医大出身の医師に、「広尾メディカルクリニックでなんと言われたか知らないが、僕なら力ずくで全摘だよ。」と言われた。確かに病状によっては全摘をよぎなくされることもあるだろう。しかし、最初は様子を見ようとしか患者には告げず、筋腫が大きくなってから何故こうも簡単に出会った全ての医師が患者の人格、気持ち、人生設計とは無縁にまず子宮全摘を言い渡すのか、私はその現実にびっくりした。

J医大の理事長の言葉どうり全摘手術のほうが子宮筋腫核出術よりも簡単だからか、全摘手術のほうが保険の点数が高いのか、子宮がなくなって体内に死腔ができてもホルモンバランスに支障が生じても生存していればいいのか、大きく縦に体の前面に残った傷を見て一生を過ごす女性の気持ちなど考慮に入れるほうが贅沢なのか、いずれにしてもそこに患者への目線は欠けている。

仕事と大学院の合間をぬって子宮保存にかけて病院を訪ね歩き医師のセカンドオピニオンを求め続けても、もはや自分にはその可能性はないのだろうか、という暗澹たる思いが胸をよぎった。どこの医師も患者にはそれぞれ違った人生設計、価値観があり、患者と医者は同等の目線で話をするべきなのに、そういうことがわってもらえないのだろうか、とすら思った。と同時にここまでの10年間、我慢できないほどの自覚症状がなかったとは言え、自分の体は自分が守るという責任をとってこなかった自らのつけが回ってきたのだと感じた。


●広尾メディカルクリニックを訪れて
まるでペンションのような可愛い、綺麗なクリニックを予約の日に訪れ、斎藤先生と初めてお会いした日のことを私は忘れることができない。インターネットに情報を開示している、ということで私はすでにある程度好意を持ってクリニックを訪れてはいた。しかしあれほど心満たされてクリニックを去ることが出来るとは思ってもみなかった。

インターネットは情報を水平展開させ、時間的またコスト的なロスをなくし、分散化した場所で双方向の広い意味での“ビジネス”を可能にする。それは今までの縦社会、上下関係、閉鎖性、数多くの差別を超える手段でもあるがゆえに、既存の体制、ビジネスに甘んじることなく、リスクを負いながらチャレンジするベンチャービジネスを多く生み出している。それらが主にアメリカで急成長しているのは、既存の体系では得られない顧客満足度を得られることに好感をもった顧客が支え、インフラが後押しし、そのビジネスへの期待度が市場において評価されているからだ。医療に関しての例ではアメリカの友人達は必要に応じてカルテやCTスキャンなどの画像をインターネットで遠隔地にいる著名な医師に送って専門的なアドバイスを得るなどといったこともしている。

同時に情報開示は発信者も含め、個々が情報に対するリスクや責任を負うこととなる。情報の開示、患者の立場に立った進んだ医療ケアの必要性は保険料圧縮の問題と共にやっと日本でも問われ始めている。

私は広尾メディカルクリニックのホームページを見た時、あえてインターネットにここまで情報をのせ発信させているのは広く自分の技術、実績を開示することに自信があり、リスクを負いながらチャレンジし続ける起業家精神に富んだ若若しい発想の医師かもしれないと感じた。顧客満足度を考えている人ならば私を人間として女性として同等の目線で話をしてくれ、他の病院と違う扱いをしてくれるかもしれない。

また一方、そうであるならば規制、閉鎖性の色濃い日本ではこのクリニックは過去多くの難しい局面を迎えてきたかもしれないな、とも思った。

斎藤先生にお会いしたとき、私は自分の感が間違っていなかったことを確信した。先生のオフィスともとれる診察室で、私の目を見ながら先生は話を聞いて下さった。スキャンで筋腫の大きさを見ながら「これでは他で全摘と言われたでしょう。でも大丈夫。子宮は残ります。教科書どうりの子宮にして返してあげますよ。」と言われた。

私は身じまいをすませてベッドから降りるとき、先生が「大きなため息をついているね。」とつぶやいておられるのが聞こえた。私は先生がそうおっしゃるまで自分があまりに嬉しい驚きでため息をついたことすら気付かなかった。そしてそれに気付かれた先生に驚いた。

「内診はしないのですか。」と訪ねると「それはさんざんよそでやってきたでしょう。そこが問題なのではないでしょう。貴方の今の問題は子宮自体が妊娠6ヶ月目を過ぎようとしているくらい筋腫で大きくなってそれをどうするかでしょう。」と言われた。どこの病院に行っても、今までの経過報告をした後、まず下着を脱ぎ診察台に登り内診をするよう言われ続けていた私にとっては新鮮で安堵感に満ちた一時だった。

「メスや各種レーザーを使いながらの高度な技術が必要な手術です。筋腫だけ確実にとってあげます。詳しいことは貴方がMRI他のデータを取った後、それらを見ながらまた何度でも説明してあげます。もし今までここで手術をした患者さんと話し合いたいなら連絡をとって直接話を聞けるようにしてあげます。手術のビデオも取ってあるから貴方の病状に近い人のビデオを一緒に見ながら説明をしましょう。もし良かったら入院している患者さんと今日お話をしていってください。」という先生のお言葉で花や草木に囲まれた二階のリビングに上がり、ほんの三日前に手術を受けた入院患者さん達とお茶を頂きながら談笑した。彼女達は遠方からこのクリニックにやはり子宮保存の最後の望みをかけてやってきた人達だった。あと二日で退院という彼女達は元気でそして満足感に満ちているように思えた。

仕事と大学院のスケジュール調整と、クリニックでの手術より大病院や総合病院のほうが何かあった時安全ではないか、と薦める母の理解を得ることに弱冠時間がかかり、手術は5月18日に決まった。心配してくれる友人達に経緯を報告すると、医学、製薬関連の仕事に従事する友人からは続々とメールや電話が届いた。

それらは母の心配に酷似したものから斎藤先生のレーザーを使った手術に対する多くの質問も含まれていた。私は斎藤先生の書かれた本や医学雑誌、またインターネットから得られた情報で一つ一つ母や友人の疑問や不安に応えていった。その過程で、友人の一人(癌の病理をやっている医師)には「君のメールは斎藤先生に対するラブレターだ。医学的、技術的な解説の後ろに君の先生に対する熱い思いと絶対的な信頼を感じる。同業者としてジェラシーを感じる。」とも言われた。技術を扱うのは所詮人間なのだから、そこに信頼と尊敬がなければ自分をまかせようとは思えない。今思えば、一番の説得材料は初診を含め手術まで数回に及んだ斎藤先生とのミーティングから生まれた私の確信だったように思う。

私が欲しいものは3つあった。1.子宮を残すこと、2.なるべく小さい傷で横に切ってもらうこと、3.短い入院期間で退院できることの以上3つだった。そしてそれらを私に与えてくれるのは広尾メディカルクリニックしかないという確信は初診の日にすでに芽生えていた。

その後、J医大でコピーしてもらったMRIやCTスキャン、血液検査などのデータをクリニックに持参して、先生にデータを前に詳しい説明をしていただいた。先生からは複数ある筋腫をいかに取って行くか、特に子宮の背中側で骨盤底近くの子宮筋腫を取り除く難しさの説明などを解剖図を参考にしながらしていただき、ビデオを見ながらの手術の説明も受け、あとは手術の日を心待ちにして当日を迎えた。


●手術当日
月曜日の朝、クリニックに入り、私は第二例目の手術だったので夕方から始まり3時間半かかった。常に先生や看護婦さんと会話をしながら信頼感に満ちた時間だった。一番大きな筋腫を取り除かれた時は内臓が引っ張られるような感じがあり、その後息を吸い込むとまるで体の中を爽やかな風が吹き抜けていくような感じがした。先生が「筋腫が大きくて横隔膜がきょ上して腹式呼吸が出来なかったのが出来るようになったのだ。」とおっしゃった。

レーザーで蒸発する時の気体が湯気のように上がっているのが見え、汗びっしょりの先生と看護婦さん達が会話を交わしながらてきぱきと手術を進めて行く様子になんと良いチームだろうと感心した。

術後、病室のベッドに移されて心配していた母と会話をしていると時をおかずして先生が入ってこられ、手術の簡単な結果報告をしてくださった。筋腫は完全に全部取れ子宮は保存されたこと、卵巣も念のためチェックしたが異常ないこと、摘出物は病理検査に送られ二週間後に結果報告書が来ることなどを話してくださった。私は喜びが胸一杯に湧き上がってきたのを感じた。


●術後経過とその後
手術当夜は微熱、吐き気で苦しかったものの、次の日から立った。腹筋の痛みがひどく三日間は苦しかったが、四日目からは人間らしい動きに戻りこれなら土曜日の朝の退院は可能だという確信が持てた。

同じ日に手術を受けた女性とはすっかり仲良くなってしまい、お互いの回復の早さに改めてこのクリニックで手術を受けられた喜びを語り合った。同じ日に手術をした女性やクリニックで知り合った方々とはメールで病後経過を伝え合い励まし合い、退院しても何度か食事をともにするような関係になれたのも、このクリニックの不思議な魅力のせいだった。

退院時には先生お手製の手術記録パート1というアルバムを頂いた。約二週間自宅療養をしたが、大学院には術後一週間で通い始めた。術後3ヶ月目には再度MRIを撮り、血液検査もして結果を広尾メディカルクリニックに持参し、斎藤先生と術後の経過に関してのフォローアップミーティングを行った。ヘモグロビンの値は手術前の6以下から13.1に回復しており、過去十年の貧血から開放されたことを示していた。

追って手術記録パート2を送って下さるというお話に心待ちにしていると、それから二週間後の九月下旬にそれは届いた。退院時に頂いた手術記録パート1同様、MRIの説明と先生手書きの解剖図および部位の説明がほどこされた内容に加え、心のこもった先生の手紙が同封されていた。

「生まれ変わった体です。幸せを求めてください。」と先生は手紙の中で語っておられた。
一年たち、私はそれをしみじみと味わっている。と同時に一人でも多くの同じ病気に苦しむ女性が救われることを祈ってやまない。

術前(pre-ope)のMRI 術後(post-ope)のMRI 摘出物
術前のMRI 術後のMRI 摘出物

摘出物
術前のMRI


術 前(pre ope) 術 後(post ope)
赤血球(RBC)4.664.8
血色素(Hb)(g/dl)13.913.5
ヘマトクリット(Ht)(%)41.042
CA-1254730
備考
●横切開、下腹部を横に8cm
●出血量:434ml
●摘出物 :
  子宮筋腫(myoma)         805g
  粘膜下筋腫              0.1g
  内膜ポリープ(polyp)     0.1g

●病理検査結果:以上全て良性


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