「ハイティーンから子宮のことを考えないで過ごした日は一日たりともなかった気がする」
レポートNo.39

山口文代(30才)
●術後の証言
術後4回目の生理が始まった。乳房の少々張った感じがあり、量も少なく、痛みらしい痛みは殆どない。夏場の暑いさなかに友人たちが海や旅行に誘ってくれるようになり、とてもうれしい。

階段も一気にかけ上がれるようにになったし、世の中まで明るく見えてくる。いつ汚すかわからない不安から、下着やズボンに常に気を付けていたが、最近は白などやたらと明るい色調の服装をするようになり、友人たちが目を見張る。

ハイティーンからこの年まで子宮のことを考えないで過ごした日は一日たりともなかった気がする。


●病苦の人生
生理の異常が、何歳の頃から始まったか記憶にはないが、中学時代には、体育の日は休んでいたような気がする。生理の量は、他人との量と比べられるものでなく、生理平均総量が40ccと聞かされた時には驚いた。私の一日の量だけでも、それとは比較にならない程多く、病的なものだった。とにかく生理が始まると痛みが走りどうしようもなく、何も手に着かなかった。

最初に検診を受けたのはJ医大。内診、超音波では、筋腫と言われ、次回の来診日には、血液検査上の腫陽マーカーも高値で子宮腺筋症と診断された。急に出血することもあるので、早く子宮全摘出の日程を決めましょうと言われ、頭の中は真っ白になった。

何とかならないものかとK大学にも通ってみた。子宮を摘出しないでと懇願するものだから先生も暗い表情に変わった。結局、副作用が強いという説明を受けながら鼻から吸引するスプレキュアというホルモン治療を半年近く続けた。しかし、その効果は見ないまま病院から遠ざかってしまった。

何度となく救急車のお世話になったが、自宅からそれほど遠くなかったN医大に運ばれた時には、数人の看護婦さんが生理でこんなにひどい状態になるのと同情してくれたうえ、看護婦さんはとても優しく、私の心はほんの少し救われた思いがした。

やがて、血色素値が4と低く、普通の人の3分の1なので、急いで輸血しないとショックになるとの説明を受けた。下の出血はまだ続いていたので、周囲が急に慌ただしくなった。輸血には同意したものの、それでもすぐに子宮全摘の言葉には、わたしの人生を全て台無しにするような気がして、首を縦には振れなかった。

心まで病魔に侵されてしまったのでしょう、子宮を全て摘出すれば治せると言った先生の言葉がよくのみ込めなくなっていた。貧血で頭がボーツとする時、このまま死んでしまうのではないかと恐怖におののいたり、またあるときは疲れ果ててしまい、まあいいか……、とさえ思ったこともあった。

輸血や一連の輸液点滴が終了する頃にはふだんの自分を取り戻していた。「ホルモン治療を半年続けましょう。その結果、子宮が小さくなったり、症状が軽減されることがあれば、手術については様子を見てみましょう。」「それでもだめなら子宮を摘出する以外には考えられません。」と、先生は結果の読めている事を淡々として強い口調で話された。

副作用の強いホルモン治療をまた6か月間の長期に渡り続けさせらることは、子宮全摘を認めさせる前投薬のようなものだと、医療の矛盾を感じざるを得なかった。泣く子をさとすあめ玉のようにも思えたし、それなら、何も薬害の強い毒を飲ますこともないのではないかと考えたりもした。ともあれ、私の、子宮を摘出されたくないという気持ちが医療サイドを困惑させているのかもしれないとも思った。

あれから3年経過した現在、私の傍らには大勢のチームスタッフを形成した先生方がいらっしゃるにもかかわらず、癌でもない私の子宮一つさえも救い出せずにいる。私はこのことを考えると、ただひたすら泣くだけであった。

私の入院中、偶然にも隣の患者さんは子宮全摘を終えた人であった。向こう側のベッドに70歳代位とおぼしきおばあさんがいた。不思議に思って見ていると、隣の患者さんが声を殺して教えてくれた。筋腫が膀胱を圧迫して尿が出なくなり、子宮全摘をしたと言うことだった。それにしても、あの年まで子宮を守った方と聞き、そのおばあちゃんに対して立派だと思い、とても感動したものだった。


●広尾での手術の思い出
麻酔は、硬膜外麻酔、痛みらしきものは殆ど感じないままに手術を終えた。ただ、周囲の音、医療器械の音、人の声が耳に入り、逆にこれから痛くなっていくのではないかと不安を感じていた。

先生、麻酔医の先生方が「痛みますか?」「気分はどうですか?」などと、ときおり声をかけて下さる言葉がとってもうれしく、先生方が私の子宮を救おうと必死に取り組んでいる熱意、真摯な気持が伝わり、とてもうれしかった。

手術は、4時間半、壁の時計が見えてはいたが、ウトウトしていたせいか、手術時間が長いという感じはしなかった。術後、ときどき痛みはあったが、生理痛の凄まじさに比べれば、無いに等しいものだった。

背中に麻酔のチューブが残されていて、痛むときはポンプで薬を追加すると聞いてはいたが、そのままの状態で次の日の午後に尿バックとともに抜去されました。その後のトイレは自力で歩行してトイレに行った。

後で聞いた話だが、私と同じ手術日にもう2名の方の手術が行われたとか、先生にとっては15時間の手術、「好きな手術だからやれるのですよ。」とおっしゃていたが、それにしても先生はタフ、すごい体力だと思った。朝の回診時に再び驚いた。先生はいつお休みになっておられるのかと思った。真夜中の午前2時過ぎに隣室の患者が先生を呼び出し話をしていたこともあった。

泣き言ばかりぐずぐず言って、先生方や看護婦さんたちを困らせてばかりいる私たち患者連中、キビキビと業務を適切にこなす看護婦さんたちの身のこなし、私たち患者への配慮、優しさ。紛れもなく、わたしたちにとっては、天使に思えた。

術後2日がたち、予定どおり土曜日に果たして退院できるかと不安に思ってはいたが、ヘッピリ腰ながらも歩くことが何とかできるようになったし、痛みも日毎に軽くなってきていた。「ガスが出るともっと楽になるよ。」と先生から言われながらも、出された食事は全て平らげていた。

次の日、患者3人で申し合わせ、二階まで歩いて上がった。お喋りに夢中になっていると、術後の痛みなどまるで忘れてしまっていた。
同じ病気、同じ苦しみ・悩みを持ち合わせた者同士、すぐに打ち解け会い、笑い話ではないが、「私の方がひどかった。」などと、お互い自分の病気の重症度を競い合うなどできたのも、ようやく救われたのだと言う心の底からの安堵感が自分にあったからに違いないと思った。久しぶりに人と心が通い合ったとても楽しい午後のひとときをすごしたものだった。

退院の前日、すっかり元気を取り戻した私たちに、院内ドッグのパルチャン(黒のミニチュアダックスフンド)が膝元にすり寄ってきてはケーキをねだった。病院のみんなを相手に戯れるパルチャンの様子を見て、とても気分が癒された気がした。

いつの間にか、私たち患者たちは、手術のために病院にいることすら忘れてしまっていた。こんなステキな病院ならもっと入院していたいなと、患者たちみんなで話したこともあった。しかし、そんな冗談のようなわがままを言っているうちに、とうとう退院の日の土曜日がきてしまった。

千葉の方は、家族の迎えの車で退院。もう一人の方は、福岡まで飛行機で帰途に、私は、大阪の実家で少しの間すごしたかったので、新幹線で帰途に付くことになった。

先生の自家用車で、羽田経由で東京駅まで送って下さった。プラットホームで手を振りながら別れる姿は、私がまるで映画の中のヒロインになったような気がした。

先生、看護婦さん、事務長、それにパルチャン、こんなに元気にして下さって本当にありがとうございました。
術前(pre-ope)
のMRI
術後(post-ope)
のMRI
摘出物
術前のMRI 術後のMRI 摘出物


術 前(pre ope) 術 後(post ope)
赤血球(RBC)348485
血色素(Hb)(g/dl)29.614.0
ヘマトクリット(Ht)(%)9.541.5
CA125>50039.6
CA19-936031.8
備考
●摘出物 :
  315g(病理:腺筋症 Adenomyosis)
  内膜ポリープ(polyp)     1g
●横切開
●両側卵巣を正常温存した。
●全ては良性(No malignancy)



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