「緊急手術で始まった私の妊娠・出産」
レポートNo.46

中島弥生(29才)
●32週目の緊急出産
大地君長男の大地(だいち)が生まれたのは99年1月2日。偶然にも主人と同じ誕生日になって新米パパは大喜びでしたが、妊娠32週で生まれた未熟児であったため、すぐにNICU(新生児集中治療室)に移されました。

生まれた時の体重が1282グラムで、小さな小さな赤ちゃんでした。その割には目鼻立ちがはっきりしていて、「未熟児でもこんなにしっかりしているんだ、これなら大丈夫」と、早産してしまった自分を励ますように保育器の中の大地を見つめていたことを思い出します。

32週で急遽、出産することになったのは、妊娠中毒症のためです。28週を過ぎる頃からむくみや糖尿、体重増加などの症状が表れはじめて、通院していた東邦医大病院で妊娠中毒症と診断され、大事をとって30週目から入院していました。

98年も暮れようとする大晦日になって症状が一段と悪化し、「これ以上、妊娠を継続すると母子共に危険」との主治医の判断で、新年早々の帝王切開となりました。入院してからというもの、「一日でも長く、10グラムでも大きくなってから生まれてほしい」と願っていましたが、これ以上は無理、との主治医のお話に、今度は「どうぞ無事に育ちますように」と祈るような気持ちで帝王切開手術に臨みました。
大地という名前は「大地に根を張って大きく育ってほしい」という私たちの願いを込めたものなのです。


●元気がなにより
大地は体重が2,600グラムになるまで2ヶ月あまりNICUでお世話になりました。妊娠中毒症のため産後3週間入院していた私は、入院中、NICUにいる大地に会いに行くことが何よりも楽しみでした。NICUは私の病室のすぐ横にあり、大地にいつでも会えるという安心感もありました。眠ってばかりいた大地が、やがて大きな泣き声をあげるようになると、それだけでもう嬉しくて、くちゃくちゃの泣き顔を飽きずに眺めていたものです。

一足先に退院した私に続いて、3月には大地も無事に退院。おかげさまで未熟児で生まれた後遺症もなく、元気に育ってくれています。ミルクを飲むのに時間がかかったり、月齢の標準体重にはまだ届かなかったりと未熟児で生まれたハンディはありますが、小粒ながらとても活発で、ひとときもじっとしていません。

這い這いで部屋中を動きまわり、目を離した隙にスリッパをなめていたりして油断できませんが、元気がなにより、無事に成長してくれている大地は私と主人にとって大事な大事な宝ものです。


●キンシュ、って何?
出産も緊急手術でしたが、実は大地の生命は、妊娠9週目でこれも緊急手術によって斎藤先生に救っていただいた生命なのです。

この体験談レポートの40号で中村多恵さんが書いておられますが、期せずして中村さんと同じ日に同じ手術を受けた妊婦が私なのです。中村さんとほぼ同じ時期に、妊娠と子宮筋腫が同時にわかり、いくつかの病院を経て広尾にたどり着きました。そして、MRIの検査を受けた当日に緊急手術となったのです。

妊娠がわかったのは98年の7月1日。そろそろ子どもが欲しいなと思っていた矢先の妊娠でした。最初に行った近所の総合病院で「妊娠はしていますが筋腫もあるので、大きい病院に行かれたほうが…」と言われたときには、キンシュ? 何、それ?、という感じで、新しい生命が宿ったばかりの子宮に筋腫ができているという事実をすぐには理解できませんでした。

筋腫があると言われてもピンとこなかったのは、それまで筋腫を疑う自覚症状が全くなかったからです。生理痛もそれほど強くなかったし、出血の量も、これは他人と比べることができないため「こんなものだろう」と思っていました。母や親戚の伯母たちからも子宮筋腫があるという話は聞いたことがありません。


●体験記に希望を見出す
近所の総合病院で「大きい病院へ」と言われて、とりあえず義父の紹介で恵比寿のK総合病院へ行きました。そこでは特に流産や胎児の危険性については言われませんでした。ただ筋腫があると早産の可能性が高いのでNICUのある病院に通ったほうがよいと言われ、新宿のT医科大を紹介してもらいました。

これでやっと産む病院が決まったと希望をもってT医科大に行ってみると、そこでは「これだけ筋腫が大きいと胎児は絶望的。しかし、こういう状態では筋腫をとるわけにもいかない」と言うのです。つまり、自然流産を待って、その後に筋腫を摘出する手術をしましょう、という意味なのです。

大学病院なら、と行ったT医科大ではかばかしい答えが得られず、私も家族も落ち込みましたが、その一方で、為すすべもなく自然流産を待つなんてとてもできない、と思いました。母は母で、子宮を全摘されてしまうのではないかと心配したようで、「子宮をとってしまったら、二度と妊娠することはできないのだから、それだけは絶対にダメ」と強い調子で言いました。

私に筋腫があることがわかったときから、母の胸のうちには広尾のことがあったようです。それというのも、母の知人が広尾で手術を受けており、母はその方を通して、広尾では子宮保存手術を行っていること、ホームページで情報を公開していることなどを聞いていたのです。

母の話を聞いて、主人がさっそくインターネットにアクセスし、朗報をもってきてくれました。「広尾では妊娠初期に胎児を救う手術を行っていて、その手術を受けて出産した患者さんの体験記が載っている」と言うのです。

私もすぐにその体験記を読み、希望がふつふつと湧いてくるのを抑えることができませんでした。子宮を失いたくないから広尾に行こうとは思っていましたが、まさか胎児を守りながら子宮保存手術をしてくれるとは思ってもみなかったのです。その体験記は私が一番求めていた答えそのものでした。


●検査当日の緊急手術
広尾に初めて行ったのは、T医科大で診察を受けた翌日、7月24日の金曜日でした。妊娠9週までなら子宮保存手術によって胎児を救うことができるというお話を聞き、とりあえず早急にMRIを撮って胎児の様子や筋腫のでき方を診たうえで結論を出しましょう、ということになりました。MRIの検査日は週明けの27日、月曜日と決まりました。

そして、27日月曜日。午前中に佐々木病院でMRIの検査を受け、その画像を持って広尾に行きました。画像をご覧になった斎藤先生は、こうおっしゃったのです。「今すぐ手術しないと、赤ちゃんがもたない。ちょっと麻酔の先生に聞いてみるから、待っていて」。

毎週月曜日は手術の日で、この日に手術を受ける患者さん二人はすでに入院して、手術前の処理などを受けているところでした。麻酔担当の先生も看護婦さんも、当然この日の手術は二人だけと思っていたはずです。そこへ急遽、私の手術が加わることになったため、斎藤先生は念のため「麻酔の先生に聞いてみる」とおっしゃったのです。

もう、びっくりです。「今日、手術することになった」と両方の実家に電話をし、母には入院の持ち物を整えてくれるよう頼みました。
午後一番には、血液検査や心電図など手術に必要な検査を受けるためにまた佐々木病院にとって返し、私も家族も大慌てでしたが、今になって振り返ると、あれこれ考えるヒマもなく手術台に上がることができたのは幸いでした。


●中村多恵さんとの出会い
ところが、驚いたことに、私のほかにもう一人、緊急手術となった妊婦さんがいました。中村多恵さんです。中村さんは前々日の土曜日にMRIの検査を受けていたそうですが、月曜日になってその画像をご覧になった先生が、急遽、手術することを決め、中村さんの職場に電話で連絡したとのことでした。MRIの検査当日に手術することになった私もびっくりでしたが、職場に「手術するから、すぐ来るように」との連絡が入った中村さんもさぞ驚いたことと思います。

同じ日に同じ手術を受けた中村さんと私が仲良しになったのは言うまでもありません。広尾を退院後は、二人とも晴れて「普通の妊婦」となり、先生のご紹介で東邦医大で妊娠の経過を診てもらいながら出産に備えました。

冒頭に書いたように、私は妊娠中毒症のため32週目での早産、それも緊急出産となりましたが、中村さんは50日あまり後に女の子を出産されました。今ではお互いに新米ママとして、子育てに追われる毎日です。この夏には、二家族で子連れで広尾に「里帰り」しました。

斎藤先生と同じ手術ができるドクターはほかにいないと聞き、幸運にも斎藤先生と出会って子供をもつことができたことに感謝するとともに、なぜ斎藤先生のようなドクターが育たないのかと残念に思います。私たちのような幸せに恵まれる女性が一人でも多く続いてほしいと切に願っています。

術 前(pre ope) 術後2日目(post ope 2nd) 術前(pre-ope)のMRI
赤血球(RBC)6.1305術前MRI
血色素(Hb)(g/dl)11.28.9
ヘマトクリット(Ht)33.225.0
備考
●妊娠9.3週目  筋腫合併
●摘出物:平滑筋腫 720g
●出血量:         613ml


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