- ●手術を乗り越えて育つ生命
- 着帯をしたお腹が日に日にふくらみを増して、ぴくっと小さな胎動を感じるようになりました。現在、妊娠20週目、出産までちょうど半分の時間が過ぎたことになります。
妊娠4週目で初めて足を運んだ家の近くの産婦人科で「どうやら筋腫があるようですね」と言われてからというもの、まったく思いがけなく我が身にふりかかった子宮筋腫と初めての妊娠という事態に、驚き、戸惑い、つてを頼って大学病院をはしごする日を送りましたが、結局、そこで示された解決法は母体が危険との理由から子供を中絶することでした。
妊娠の喜びが一瞬のうちに暗転する日々のなかで、最後に私がとった行動は、コンピュータの前に座りインターネットで情報を収集することでした。とにかく何でもいいから解決の糸口となる情報がほしい、そんな藁をも掴む思いで「子宮筋腫」というキイワードをたよりにサイトを片っ端からチェックし、見つけたのが広尾メディカルのサイトだったのです。
そして、さらに驚いたのは、私と同じように妊娠と同時に子宮筋腫が見つかった女性たちが何人も斎藤先生の手術によって子供も子宮も救われて、無事に出産しているという事実です。体験レポートでこの事実を知った時の喜びは衝撃に近いもので、それを読むなり、もうここしかない、と決意したのです。
今、私の胎内にある小さな生命は、インターネットによって斎藤先生と出会い、斎藤先生の類い希な技術によって救われたかけがえのない生命です。感謝してもしきれない斎藤先生との出会いと、これまた初めて体験した手術のことなどについて、以下にレポートします。
- ●あちこちの病院へ
- 子宮筋腫だとわかったのは昨年の11月半ば頃、妊娠の兆候があって訪ねた近くの小さな産婦人科医院でです。医師は内診を終えると、妊娠4週目であることを告げたあと、少し表情を曇らせて「子宮筋腫があるようですね。少し大きいようです。まあ出産は大丈夫だと思いますが、来週また来てください」と言いました。シキュウキンシュ? 初めて聞く耳慣れない言葉でした。
根が行動的で健康にはかなりの自信をもっていた私にとって、子宮筋腫という聞いたこともない病名を告げられたことはショックではありましたが、それでもその時はさほど深刻にはならず「先生も出産は大丈夫だと言っているし」と楽観的に考えていました。
大事をとって別の病院でも診てもらおうと主人と一緒に少し大きい産婦人科のクリニックに出掛けたのは、その翌週です。内診のあと、そこの医師は「かなり大きい子宮筋腫です。うちでは診きれないので、大学病院を紹介しますから、そちらに行ってみてください」と言いました。もしかしたら事態は私が考えている以上に大変なのかもしれない、と思ったのはこの時です。
翌週、さっそく紹介された昭和大学病院に行きました。産婦人科の長椅子には人があふれるように診察を待っており、私も待つこと3時間、ようやく呼ばれて検査室に入った時にはすっかり待ちくたびれていました。検査のあとの診断は「産めないということはありません。様子をみましょう。来週また来てください」というもので、それ以上のことは何も話してもらえず、ひたすら「ま、様子をみましょう」を繰り返す医師に拍子抜けしてしまいました。結局、何の解決にもならなくて、時間の無駄使いだったという思いがこみ上げて、悲しくなったのを思い出します。
- ●「早い時期に中絶を」と宣告
- どこか信頼できる病院できちんと診てもらいたくて、主人の知人に薦められた聖マリアンヌ医科大学病院を訪ねたのは、その翌週です。また初診からの出直しです。診察の結果は「このまま妊娠を継続できないとは言えない。しかし、流産する可能性もある」とのことでした。つまり、五分五分の状態なので、このまま様子をみる、ということです。
五分五分と言われれば、どうしても可能性のあるほうに賭けたいのが人情です。医師の話を聞きながら私は、たとえ流産する結果になっても、このままなんとか妊娠を継続させよう、と考えていました。とにかくなんとしても産みたかったのです。
念のためにMRIの検査を受けることになり、検査日は年明けの17日を指定されました。大学病院ではMRIの検査を受けるのも1カ月先なのです。なーんだ、まだまだ先の話だわ、それまではたぶん大丈夫ということなんだ、と1カ月先の検査日を確認しながら少し安心する気持ちになったものです。
ところが、経過を診てもらうために1週間後に再び訪ねると、まったく予想に反した言葉が返ってきました。「このままではいずれ流産します。お腹が大きくなればなるほど出血が多くなり、危険な状態になります。今回は手術したほうがいいでしょう。それもなるべく早い時期に。どうしますか?」
私は何を言われているのか、まったくわかりませんでした。その日は暮れも押しつまった21日。年内に手術をしたほうがいいと言わんばかりの勢いで話す医師の言葉を頭の中で復唱し、ようやく理解したのは、その手術が中絶を意味していること、そして手術の決定を迫られていることでした。
それはあまりにひどい。様子をみようと言っておきながら、たった1週間で子供をおろせだなんて。でも、結論を急がなければ母体も危険にさらすことになるし…。その場で結論など出せるはずもなく、「すぐには決められません。もう少し時間をください」と言うのがやっとでした。
- ●先生に送った涙のEメール
- 中絶だけはイヤだ。子供を助けなければ。でも、どうやって? これからまた新しい病院を見つけるの? 大学病院でこう言われてしまっては、もうどこに行っても同じなのでは? いろいろな思いがいっぺんに頭の中をかけめぐり、混乱状態のまま帰途につきました。
家に帰るなり私がしたことは、コンピュータの前に座りインターネットで情報を集めることでした。そして、出会ったのが広尾メディカルです。ホームページには筋腫の解説やクリニックの紹介が詳しく書いてあり、何よりも力になったのは広尾で手術を受けた方やそのご主人の体験レポートでした。それを読んで、もうここしかない、ここに行ってダメだったら諦めよう、と決意したのです。
さっそく初診の予約を入れようと電話をすると、なんと年内の診療は終了しており、「来年の1月11日以降に来てください」とのこと。それを聞いて私は動転し、「それじゃ間に合わないんです。お腹に子供がいるんです。でも、筋腫があって、今すぐにでも中絶するかどうか結論を出さなくちゃいけなくて、その前に何とか診ていただきたいんです」と訴えました。もう涙で声が詰まって、最後のほうは言葉になりませんでした。
しかたなく1月11日に予約を入れて電話を切ったものの、自分に対して悔しくて悔しくて、再度インターネットにつないで、自分の思いのたけを書いたメールをダメもとで直接斎藤先生に送りました。もちろんメールをすぐに見てくださるかどうかもわかりませんでしたが、それでも何かせずにはいられなくて、涙を流しながら書いたメールでした。
ところが驚いたことに、その数時間後に先生から電話があったのです。信じられませんでした。「あなた、明日来られる? じゃ午後1時にいらっしゃい」。ほんの短い会話でしたが、私には神様の声のように聞こえました。ああ、これで道が開ける、と思ったのです。
- ●妊娠11週目で手術
- 初診は12月22日。その日のうちに違う病院でMRIの検査を受け、翌日、主人とともに再度クリニックを訪れ、MRIとCTの画像を見ながら先生のお話を聞きました。
初めて見る自分のお腹の様子に私は仰天しました。バレーボールくらいの大きさはあろうかと思われる球状の白い影がお腹の中にすっぽり入っている、そんな感じだったのです。そこには大腸も小腸も肝臓もない、ただ丸いものが全体を埋め尽くしていました。肝心の胎児を宿した子宮は、そのずっとずっと上の方に押し上げられる感じで、お臍よりもかなり上部にちょこんと乗っていました。
「大丈夫。子供は90%助かるよ」と先生。この時、今までの不安や恐怖が全部すーっと引いていくのをはっきりと自覚しました。
手術日は年明け早々の1月10日と決まりました。通常なら半年先まで待たなければならないところを、このタイミングを逃すと手術が非常に難しくなるという理由から、妊娠11週目の1月10日に、すでに決まっている患者さんに割り込むかっこうで手術予定者に加えていただいたのです。手術を待っておられる他の患者さんに申し訳ないと思いながらも、手術の日まで何事もなく無事に過ぎてほしいと祈る毎日でした。
- ●手術直後「この子は強い子だよ」
- 1月10日の手術日。手術室には音楽が流れていました。最初はレゲエのような音楽。それは患者を音楽のほうに集中させて気持ちをリラックスさせるためだとあとでわかりましたが、初めての手術で緊張している私には音量が大きく感じられて、少し耳障りだったのを覚えています。
手術は順調に進んでいるようでした。麻酔はしているものの意識はしっかりとありましたから、手術中はとにかく明るくて楽しいことを考えようとしました。そうだ、大好きなテニスをやっている時のことを考えよう、と思い、コートの上を自在に動いて試合に勝った時のことや、ふだんの練習で気持ちのよい汗をかいたことなどをずっと思いめぐらせていました。
それでも時折、手術台が揺れるたびに現実に引き戻され、ああ、今は摘出しているところかな、子供は大丈夫だろうか、と考えずにはいられませんでした。
BGMの音楽はクラシックありポピュラーありとバラエティーに富んでいましたが、最後の方には私の好きなサイモンとガーファンクルの一連のヒットソングが流れてきて、そっと声にならない声で口づさんだりして気を紛らそうとしました。
随分と時間がたったような感じがして、ああ、まだ終わらないのかしら、まだかしらと待ち遠しい思いでいると、ようやく終わったような雰囲気があたりに漂い始めました。
その時、先生が「赤ちゃんは元気だよ。こんな大手術なのに安定している。この子は強い子だよ」とおっしゃったのです。私はしゃがれた声で「ありがとうございます」というのが精一杯で、目から涙があふれてしまい、看護婦さんに拭ってもらうほどでした。
先生はこうもおっしゃいました。「筋腫がたくさん取れて、あなた、生まれ変わったんだよ、ね」。
- ●出産予定日は7月末
- 摘出された筋腫は935グラム。透明なビニール袋にぎっしり詰まったホルマリン漬けの筋腫を見るにつけ、「こんなものが何年も私のお腹の中にあったんだ、こんなにもたくさん」と、信じられない思いでした。
「こんなに大きな筋腫があったのに、何も自覚症状がなかったの?」と聞かれましたが、たしかに出血の量は多めでしたが生理の周期が乱れることもなく、子宮の病気を疑うような兆候はありませんでした。病気知らずできた私にとって、子宮筋腫という診断そのものが青天の霹靂だったのです。
摘出された筋腫の塊を目にしてからというもの、こんな大きな筋腫をもちながら妊娠したことが、どんなに稀なことなのかがよくわかります。たしかに大学病院でも家の近くの産婦人科医院でも「こんな筋腫があって、よく妊娠したね」と何度も言われましたが、この妊娠はそれだけ驚くべきことだったのでしょう。
奇跡ともいえる妊娠、そして危機一髪のところで斎藤先生によって救われた生命。だからこそ、私の胎内にあるこの生命を本当に大切にしなくては、と思うのです。
出産予定日は7月末。おそらく、その1〜2週間前に帝王切開で出産することになるでしょう。そうしたら育児でてんてこ舞いの毎日になるかと思いますが、またこのホームページで出産と育児の様子などをレポートしたいと考えています。
術前(pre-ope) のMRI |
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術 前(pre ope) |
赤血球(RBC) | 380 |
血色素(Hb)(g/dl) | 12.3 |
ヘマトクリット(Ht) | 35.7 |
備考 |
●摘出物:平滑筋腫 935g
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