「子宮を残すのは誰のためでもなく自分のためなのです。」
レポートNo.66

遠山和美(36才)
●変則的な家庭環境
私は、20歳で結婚し、21歳と23歳で長女・長男を授かりましたが、数年後離婚をすることになりました。親権を取れなかった私は、泣く泣く2人の子供を夫に託しましたが、当時小学校1年生と幼稚園生だった子供達の事を思うと母親として側にいてあげられない自分が情けなく、子供に対し、申し訳無い気持ちで一杯でした。

離婚後、お互い新しい人生に向け歩んでいましたが、時々元・夫から夜になるとかかって来る電話での一言が私を苦しめていました。「子供達の母親なのに・・・・。」 本当は、ずっと子供達と一緒に暮らしたいと思っていた私でしたので、母親として子供達のそばで、出来る事をして行こうと決心をし、元・夫の家での同居生活が始まりました。平成5年、29歳の春でした。


●いきなりの手術宣告
同居したとはいえ、戸籍上、元・夫は他人です。私自身の将来に向け、収入も得なければなりません。子供達と一緒にいる幸せとは逆に、私自身の将来に関しては不安を感じていました。同居と同時に、安定した正社員の職を捜しました。

学生時代に勉強した簿記の資格では通用しないことを知り、専門学校に通い、就職する為に簿記の検定試験を再取得し、税理士事務所に勤務することが出来ました。結婚前、2年弱しか働いた経験の無い私の第二の人生が、29歳の冬スタートしました。

仕事は内勤の他に、関与しているお客様の会社・自宅を訪問します。毎月繁忙期になると、夜遅くなる事もあります。子供がいるからと甘えてはいられません。仕事の上では新入社員と同じです。当時は、子供達にも淋しい思いをさせたと後悔していますが、私自身は、この子達がいたから頑張る事が出来たと感謝しています。

平成5年のある日、お産をした病院で、「5センチの子宮筋腫がありますね。すぐ手術をしないといけません。」と言われました。私が高校3年の頃に母も筋腫の手術で入院をした経験があり、大変さは知っていましたので、“今、仕事を始めたばかりのこの時期に、手術をして入院なんてとんでもない!”と正直思いました。しかも当時、私を指導して下さっていた方が、翌年4月から研修に行かれる為、その方の仕事を全て引き継ぐことが決まっていました。

“他の病院にも行って意見を聞いてみよう!”と行った、2件目の個人病院では「貧血等の諸自覚症状も無く、現在子供さんがいらっしゃいますが、まだお若いし、いつまたどんな出会いがあるとも限りませんからね。その時、後悔をしないように。」と言って頂き、手術は見送りになりました。当時29歳だった私は、もう出会いなんて無いし、手術をしないといけないのであればして欲しいと内心思っていました。でも、今思えば、この先生の配慮があったお陰で、大事な子宮を失わずに済んだ訳ですから、今はとても感謝しています。

その後、私の病気を心配した方々から、いくつか病院を紹介していただき診察を受けましたが、特に自覚症状も無い私に言われることは、いつも同じでした。「自分が自覚症状を感じた時に、手術をする・しないを判断して決めて下さい。」私は、それでも医者?と疑問を持ちました。しかし医者がそう言う訳だし、まだいいのだろうなぁ〜と思い、病気の事を忘れ、仕事に打ち込んでいました。

石の上にも3年!を目標に働き、私も33歳になっていました。仕事で知り合った方から「体力作りも大事だよ!」と誘われて行ったエアロビクスで自分の体の不調を感じました。1時間のレッスン中、水分補給を兼ねた休憩がありますが、必ずトイレに行かないと後半のレッスンを継続出来ないのです。それは日に日に強くなり、周りの方々は美味しそうに水分を取っているのに、私は口にすることも出来ず、逆に仕事中も水分制限を余儀なくされていきました。

常に膀胱を圧迫されている感じがして、水分制限をしているにも係らず、1日に何度もトイレに行くようになりました。客先を巡回する仕事でしたので、外出する度にトイレの場所の確認が習慣になり、それは他人の眼から見ても異常だったと思います。私と頻尿との戦いの始まりでした。


●広尾メディカルクリニックとの出会い
生理開始翌日の出血の量は以前より多かったのですが、頻尿と同じく現れた症状がありました。生理開始当日の腹部の激痛です。朝始まれば午後・午後始まれば当日夜と、生理が始まってしばらくすると腹部を抱えるほどの激痛が始まります。

朝に生理が始まった場合は、午後には働ける状態ではなくなるのですが、関与先との予定が入っている為、お休みも出来ない状態でした。夜は、横になり休んでいても痛さで眠れず、どうして??と不安な日々を過ごしていました。

平成11年9月、関与先の奥様が、ガンの為30代の若さで亡くなったという話を聞き、仕事の忙しさを理由にご無沙汰していた婦人科へ行きました。仕事を通じて紹介して頂いた先生で、最近独立された若いドクターでした。最新医療で私を救ってくれるかもしれない。そんな甘い期待を見事にこの先生は裏切ってくれました。

筋腫は10センチ程で、胎児の頭位に、大きくなっているので、手術をした方が良いと言われ、子供が二人いるのを理由に、全摘を勧められました。この時の私は、以前と違い“絶対子宮を失いたくない!”と思っていましたから、余計にショックで、病院の待合室で、一人涙を浮かべて座っていました。それを見ていた看護婦さんが声をかけてくれました。「ショックだったの?」「はい・・」「でも、症状が重くなった理由がわかって良かったと思わなきゃ。」「・・・」無言の返事しか出来ませんでした。

私が手術を拒んだため、ホルモン療法(注射)で筋腫を小さくしようという方針に変わり、その準備の間待合室で待っていました。再び先生と話をする為に診察室へ入ったときに思わず尋ねていました。「先生は、子供がいる・いないで手術の方法を決めるのですか?」他にもドクターに対して、かなり失礼な質問もしたような気がしますが、私には納得が行きませんでした。

ホルモン治療を拒否し「筋腫だけ取れないのでしょうか?」と、再度質問をしましたが、全部子宮を取るのと、一部取る手術とでは手術の大変さも違うし、出血等も多くなり輸血も必要等々、私の願いは全く聞き入れてもらえませんでした。病院からの帰り、ショックと悔しさで涙が止まりませんでした。今、こうしていても、当時の屈辱とも言える医者の言葉の数々を思い出すと涙がこぼれてきます。

同じ頃、TVで病気と闘って克服された方の話を聞きました。その方は担当の医者の言葉に納得が行かず、自分を助けてくれる医者が必ずどこかにいるはず!との思いから、友人・知人等を通じて探し、ある医者との出会いがあり、今助かった自分がいる、と話していたのを思い出しました。私も、同じ気持ちでした。“私を、助けてくれる医者が必ずどこかにいるはず!” でも私には、医者と縁のある知人は回りにおりませんでした。どうしたらいいのだろう? 職場で毎日使っていたパソコン。そうだ!インターネットで探してみよう! 検索欄に“子宮筋腫”と打ち、そこから、ネット検索の旅が始まりました。

病状等の説明・病院の紹介等あり、“インターネットって便利なのだなぁ〜”と、その時初めて思った私がいました。その中で出会った病院。それが「広尾メディカルクリニック」でした。


●初診から手術まで
先生の臓器・子宮に対しての言葉を読んでいるうちに、私が捜していた医者に出会えた気がしました。受診してみたい!近くだったら、すぐにでも飛んで行きたい気分でした。しかし、平日に休暇を頂いて飛行機で行かないといけないくらい遠い病院だったのです。

誰に相談も出来ず、1人で“どうしよう?”と悩んでいました。でも他に医者は知らないし、いずれ手術をしないといけなくなる事を考えると、今、広尾メディカルクリニックの斎藤先生に診て頂かなかったら、後悔すると思いました。11月中旬に、思い切って広尾メディカルクリニックに電話を入れました。

診察をしてもらうには、仕事の休暇願、MRIの検査予約、航空券、横浜での宿泊先等の予約が全て整わないとなりません。1日でも早く受診をしたかった為、初めての電話は、航空券を手配した旅行会社からかけました。パック旅行で行くため、飛行機・宿泊・病院の検査時間等、すべてを調整しなくてはなりませんでした。何度も日程調整の電話をかけましたが、優しく対応をして頂き、感謝の気持ちで一杯でした。まだ病院にも行っていないのに、半分気持ちが軽くなっていました。

平成11年11月19日 金曜日。誰にも告げず、1人で東京行きの飛行機に乗りました。佐々木病院でのMRI検査。結果を持ち「広尾」へ。今思うと、始めての場所に良く一人で行けたものだと思います。それだけ、必死だったのだと思います。

MRIの画像を見せて頂き、先生の説明で、私の目にも子宮とその周りにある筋腫がはっきりとわかりました。「こんなに大きくなっているのですか?」数字で何センチと言われてもピンとこなかった私は、改めてMRI画像の凄さを感じました。先生の「大丈夫!」の言葉に涙を流しながら“あぁ〜来て良かった!”としみじみ思いました。 今までと全く違う、明確な診察と自信満々の先生の言葉に感動すら覚えました。その後、広尾クリニックで手術体験をされた方のレポートが書かれた本「子宮をのこしたいー10人の選択ー」を読んで、改めて斎藤先生の素晴らしさを感じました。

診察後、希望の光が見えた私は、「ここで、手術をします。一番早く出来る日はいつですか?」と質問をしていました。「平成12年4月3日(月)ですよ。」早くても約4ヶ月待ちに驚きましたが、手術までの間、症状は良くならなくても、もうすぐこの痛みからも開放されるのだ!という希望に満ちた嬉しさの方が大きかったと思います。

2Fで手術についての事務的なお話を伺いましたが、今更誰に相談をするのでもなく自分自身がどうしたいか?でしたので、手術費用には、今まで子育てをしながら働き、将来の為に・・と貯めた貯金を充てる事にしました。

仕事をお持ちの方は皆さんそうでしょうが、私も職場へ病気の事を話し、休暇願を出しました。その間、私の担当先を事務所の男性方に割り振って協力をしてもらわなくてはなりません。年配の上司は、「体が悪い時はお互い様なのだから、遠慮する事はない。」と言ってくださいましたが、一時的とは言え、仕事量が増える事に納得のいかない方々から理解を得るのが難しく、思い切って確定申告修了後の3月末で退職をする事を決心しました。その方が、仕事も真剣に引き受けてくれるだろうし、彼らも自分の関与先になれば根性を入れて面倒をみてくれるだろうと、判断をしたからです。

3月になり、思い切って一週間休みをもらい持病の手術も受け、退職まで残り10日間は、こんなに長時間働いた事は無いと思うほど仕事をし、31日・夜遅く最後の仕事を片付けて帰り、翌日4月1日・子供達と手術に立ち会ってくれる母の4人で東京に向かいました。

1日・2日は、母と子供達を連れて横浜・鎌倉・江ノ島を観光しました。手術の事も忘れ、久しぶりに家族でゆっくりした気分を味わえました。3人からお守りをもらい、「手術を乗り越え元気になるからね!」と誓い、手術当日の朝を迎えました。


●手術当日・入院生活
4月3日8時半。病院へ4人で行きました。病院らしくない待合室。病室は自分の部屋みたいな温かみのあるお部屋で、母もびっくりしていました。ペンションにでもお泊りに来た感じでした。病室で着替えて術前の準備が始まり、手術室に入ってから麻酔をしてもらい、ふと気が付くと手術の真っ最中でした。

好奇心旺盛な私は、手術が終わるまで目を開け、貴重な経験をさせてもらいました。術後何が大変だったかと言えば、喉が渇いて仕方が無いのに水分を補給出来ない事でした。母、子供達の支えもあり、無事に手術当日を過ごせました。

翌4日。もうすぐ子供達の学校も始まるので、3人には先に帰ってもらいました。1人で寂しくないだろうか?と少し不安でしたが、残り数日間、その心配は無用でした。ベッドの上で起き上がり方を学び、歯磨きから私のリハビリは始まりました。初めて手術を経験した私には、どうして月曜日に手術をしたばかりで土曜日に帰る事が出来るのか、不思議でした。

「えっ?もう歩くんですか?」おそるおそる、昨日手術をした2人の方々の部屋まで、看護婦さんと共に点滴スタンドを押しながら、ゆっくり歩いてご挨拶に行きました。私より後に手術を受けた方々には、「えっー?もう歩けるの?」と言われ、言われた私も驚いています。リハビリには歩く事が一番だと言われ、夕食後は廊下を歩いたり、階段の上り下りをしたりが日課になりました。飛行機に乗って帰らないといけないし、がんばらなくては!と意欲も湧いて来ました。

病院の食事とは思えない毎食のご飯も楽しみでしたし、看護婦さんの面倒見の良さも私を感動させてくれた事のひとつでした。

金曜日の午後。患者同士、先生を囲んでのお茶会。外はちょうど桜が満開で春のさわやかな風が、優しく“元気になってよかったわね”と語りかけてきているようでした。明日は、帰る日。この日を目標に毎晩歩いていたのに、このままずっとこの病院にいたいなぁ〜と思うようにさえなっていました。そのくらい、とても居心地が良かったのです。

土曜日、退院日。斎藤先生は最後まで、私達患者一人一人が無事に帰るまで責任を持って接して下さいました。前日にいただいた、手術、入院記録。ここまでして下さる先生にはお目にかかった事がありませんでした。これまた、感動しました。嬉しいはずの退院日、羽田から離陸する時に、「広尾」で過ごした数日間を振り返り涙がこぼれました。もちろん嬉し涙です。


●退院後の人生
わずか1週間でしたが、入院生活を快適に過ごし、自宅での生活が始まりました。しかし、3・4日後急に胃の痛みを覚え、地元の胃腸科に入院してしまいました。急に食べ過ぎてしまったのでしょうか?3日間の絶食を言われ、また、入院生活をしてしまいました。こちらの方が「広尾」より辛かったかしれません。慌しく過ごしてきた緊張の糸が、プチンと切れたようでした。

前月までの疲れも出たのかもしれません。入院患者同士、私の体験談を話をする機会もありました。みなさん驚かれる方もいますが、こうして生き証人がいる訳ですから“本当によかったわね”と言って下さいます。入院後に迎えた第1回目の生理期間。“えっ?これだけ?”本当に正直な感想でした。今まで、経験してきた出血量・腹部の激痛が嘘のように解消されていたのです。“これが正常なのだ!”と得心するまで“不思議だなぁ〜!”と毎月のように感じていました。術後1年経過し、全く違う人生を歩んでいると思います。

出会いによって人は変わると職場の上司にいつも言われていました。実感としてあまり感じることがありませんでしたが、今は声を大にして言えます。“私は、斎藤先生と出会えて変わった!”

内面的にも、外面的にも。後ろ向きに考えていた自分の人生を、もう一度、明るく未来に向けて歩んで行こう!と思えるようになりました。術前の頻尿・腹部の激痛・生理初日の出血量の多さ、全て改善されました。少しづつですが、走ることも出来るようになりました。

何よりも、女性にとって大切な子宮を守れた事。病気等でどうしても・・とならない限り、絶対大切に守るべきだと思います。現場の医療従事者もそう考えて欲しいと思います。子宮は、子供を産む為だけの臓器では無いこと。医者の安易な一言で、傷ついている方々がたくさんいらっしゃる事を考えて欲しいと思います。

私は、心が健康でなくては体も健康にならない事を、再確認しました。大袈裟でしょうが、同じ病気で悩んでいらっしゃる方々を一人でも多く救ってあげたいと思うようになりました。


●最後に・・
今、子宮を残せて良かった、と、つくづく感じています。斎藤先生、看護婦の皆さん、手術のスタッフの方々、本当にありがとうございました。

余談ですが、「広尾」で診察を受け手術まで踏み切る女性は、みんな斎藤先生に惚れちゃうかもしれませんね。医師としてはもちろん、素晴らしいの一言です。キッパリとした診断、治療に対する自信、そしてそれを実証する手術の腕、患者さんに対する優しさ・・・。「一生現役でいたい!」という斎藤先生の姿勢にも、とても感動致しました。どうかお体にだけは充分お気をつけて、がんばって頂きたいと思っています。

先日も、術後1年振りに病院を訪れましたが、懐かしい場所に帰ってきた感じが致しました。今から手術を受けられる方々が、一日でも早く元気になられることを祈っています。そして、体験談を読んだけど迷っていらっしゃる方、これもひとつの縁ですから、思い切って予約の電話を入れてみてはどうですか?

あなたの体を守ってあげられるのは、あなた自身なのですから!まずは、決心しましょう!

最後に、手術後、私の今後の人生を変える大きな出来事がありました。それは、将来を共に歩んで行きたいと思える人生のパートナーに出会えた事です。病気が治った事で、心も元気になったのでしょうね。おじいちゃん・おばあちゃんになっても手をつないで散歩をしたいネ!と、2人で話をしています。諦めていた幸せを手に出来るのも、斎藤先生との出会いがあったからと深く感謝しております。

さぁ〜! 病気を克服して元気になりましょう!そして幸せになりましょう! 誰のためでもなく、自分の為に。
術前(pre-ope)
のMRI
術後(post-ope)
のMRI
術前のMRI1 術後のMRI1

摘出物
摘出物
摘出物 摘出物


術 前(pre ope) 術 後(post ope)
赤血球(RBC)521542
血色素(Hb)(g/dl)13.214
ヘマトクリット(Ht)41.042.0
備考
●摘出物:
	筋腫     440g
	内膜ポリープ  0.1g       


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