「人生のリセット」
レポートNo.69

佐藤真弓(33才)
ゲームで失敗し、負けそうになったら「リセット」をする子供がいます。大人は「人生にはリセットボタンはないんだぞ!」と子供を諌めます。ですが、病気でドン底の体調や気持ちを抱えて生きていた人が、病気を治癒し心身ともに元気になれれば、自ずと人生はリセットされる・・、と今の私は思います。


●生理痛は当たり前?
私はず〜〜っと、生理痛があるのは当たり前だと思っていました。小学校5年生頃から生理が始まりましたが、初潮から2〜3年経って生理の周期が落ち着いてきた頃から、既に時々生理痛があり、というよりも痛くない生理の方が稀でした。母が頭痛持ちで鎮痛剤をよく使っていたので、鎮痛剤に対する抵抗も殆ど無く、“痛かったら鎮痛剤”でした。TVなどのCMのせいか、鎮痛剤を服用する事も、出血量が多いことも、当たり前だと思っていました。妊娠・出産以降、多少は生理痛に改善が見られましたが、それでも二人目を産んでから3〜4年後には、元のような痛みが現れていました。

1999年の秋頃から、日曜日になると疲れがドッと出て、起き上がるのさえ辛いような倦怠感に見舞われるようになりました。決して仕事がきついのではありません。私は家業の伝統的工芸品の製造をしていますが、座り仕事ですから・・。子供の面倒すら見る事ができず、何となく自分の体じゃない様な感じでした。パパからも「怠け者!」と叱られ、「私はこんなに疲れているのに!」と腹立たしく、ケンカも多くなりました。


●生理痛+不正出血=貧血≒倦怠感・体調不良・情緒不安定
生理と生理の間にも出血はありましたが、最初は排卵日頃の出血だったので、中間期出血だと思い、あまり気にしていませんでした。ですが、性交後も必ず出血しますし、それが翌日まで持ち越すことも度々でした。だんだんと生理日以外の出血が増えているので、なんとなくオカシイ?と感じ始めました。体調の悪さと相まって、生理痛は激痛で、まさに七転八倒の苦しみでした。出血量も多く、ゼリー状の塊が出る事も常でした。

2000年の年明け。始まった生理が少なくなる気配がありません。「おかしい」と思った矢先の5日目に、大量の出血と共に、血の塊が「ドカドカ」という感じで落ちてきました。TVでよく宣伝されている「ウルトラナイト」を昼間から使っていても、下着・スカートを浸み透して、ジャケットまでベッタリと汚してしまうほどの出血。自転車に乗れば鼠径部がチクチクと痛み、何が何だか分からないけど、とにかく自分の生理がひどいという事だけはハッキリ自覚するようになりました。

同年3月の生理では、ひどい腰痛と腹痛で、4日間起き上がれませんでした。この頃にはいつも疲れがひどく、立ちくらみなどもしょっちゅうでした。「いよいよオカシイ、卵巣嚢腫かも」と思い、意を決して、お産でお世話になったクリニックへ診察に行きました。血液検査と子宮頚癌検査を受けたところ、ヘモグロビン値9.4。立派な貧血です。エコーでは、素人目にもハッキリ見て取れるほどの筋腫が子宮の真中にあり、それはまん丸な蜜柑のようでした。「お産の時は、こんな筋腫は無かった。」とクリニックの先生に言われました。確かにそうかもしれません。その頃はこんなに体調も悪くなかったし・・。積極的な治療をしたいと思い、、ホルモン療法を試してみる事にしました。

4月の生理開始日から、擬閉経療法でナサニールを使いました。最初の3日間は腹痛、それからは酷い悪寒に吐き気。頭を内側から殴られているような頭痛。3時間と起き上がっていられません。9日目には耐えられなくなり、先生と相談のうえ、中止しました。このとき私は、自分の更年期(閉経)を疑似体験したわけですが、あまりの体調の悪さにショックを受けました。これは全摘出などしたら、間違いなく体調を崩し、下手をしたら廃人同様になってしまうのではないか・・?そういう思いが私を囚えて離しません。

ツムラの桂枝伏苓丸を服用し始め、多少は生理がマシになり、貧血治療のために鉄剤の服用も始めましたが、どちらも対処的な治療でしかありません。出口の無い迷路に迷い込んでしまった気分は拭い去れませんでした。

さらにこの頃、夜中にお小水が「ジャー」と漏れた気がして飛び起きました。私の体は一体どうなってしまったの?これからどうなってしまうの?もはや自分ではコントロールできないこの状態に、すっかり落ち込んでしまいました。そう言えば癌だと水っぽい帯下が降りるらしい。またしても怖い思いに囚われて、診察時に言いそびれてしまいました。

「このままでは子宮全摘出に向かって突っ走ってしまう。イヤだ、絶対に!」何とか方法があるはず、と、治療法の模索を始めました。ところがどんな本を見ても「摘出=治療」という書き方しかしていない。どうして取り去ってしまう事が治療なのか、ガンのような悪性の腫瘍ならば仕方ないとしても。私の体・私の子宮なのに。残したい!なぜここまで子宮を残す事にこだわったかというと、私の周囲で婦人科系の疾患に罹り子宮を摘出した方は、殆どが良い結果を得ていないからです。

私の父、母方双方に内膜症、筋腫で全摘出した伯母達がいて、目の当たりにしていた事も、大きかったかもしれません。知人で48才で膣式全摘出を受けた方は、数年後に骨粗鬆症になり、現在も治療中です。また、重い物が持てずに腰痛を訴えています。子宮摘出後、十数年で内臓下垂になり、内臓を引き上げる手術を受けた人もいます。3人の子供があった為、30代にして筋腫で子宮を全摘出した方は、半年間も酷い更年期障害に苦しんだと聞きます。

子宮の全摘出が体に与えるダメージは相当だと思います。それに、子宮を摘出してしまうという事は、女にとっては心の支えを失うような一大事です。年齢や未婚・既婚、その他の条件などは一切関係ない問題に思えます。

何度も弱気になりましたが、積極的な治療を望んだのは、治ると信じての事でした。医師の「今の所、経過観察でいい。」と言う言葉は、放っておいてもいい事でなく、いずれ全摘出の手術が対象になってくると言う意味だ・・・そう気づいたのは、あっという間に自分の症状が進んできてからでした。

私の叔母は、35才の時、卵大の筋腫が検診時に見つかりました。症状がなかったので経過観察のみで閉経を迎え、筋腫が消失してしまったそうです。初め、摘出しか方法がないのなら閉経まで逃げてやる、幸い逃げ足は速い・・な〜んて考えていました。そんな奇跡めいた事を、当時の私は信じていたのです。不思議な子宮ちゃん。

子宮にまつわるこんな事もありました。私の友人が酷い妊娠中毒症にかかり、9か月目で1,000グラムの極小未熟児を産んだとき、先生に「女の子で子宮があるから、命が助かった。」と言われたそうです。事実、この様なケースでは男の赤ちゃんより女の子の方が、圧倒的に生存率が高いそうです。この事が頭にあって、生殖器であるだけでなく、何か健康を司るもの・・・そう感じてました。今となっては、正解ですね。「女の一生はホルモンに左右される」という言葉もありますから・・。

インターネットでも子宮を残す方法を探し回りました。川崎市立病院の子宮動脈閉栓療法が気になり、電話で問い合わせてみました。対応はとても丁寧で、担当の放射線科の先生に電話が回され、説明を聞きました。保険がきくので、費用も魅力的・・。でもチョット待って。本当に栓をしちゃって大丈夫?筋腫を枯れさせるなら、正常細胞まで影響が出ることもあるのでは?と疑問を抱き、こちらでの治療は断念しました。

主人が「広尾」のホームページを見つけ、10数枚のプリントを渡してくれました。いまでもこれは最大のプレゼントだと思っています。ここなら・この先生なら信頼できるかも?ハッタリじゃないよね?会ってみたい。「広尾」で診察を受けるために上京。

義母オススメの病院があるというので、そこでも診察してもらいましたが、粘膜下筋腫で核摘出は難しい、核摘出だと子宮そのものがペラペラになるほど、こそげ取らなくてはならず、内膜が残せない、との診断。子宮内部に、子宮が収縮できないために排泄されない血液の塊が一杯とのこと。ひどい事になっていると覚悟はしていたけれだど、これほどとは・・。

初診時の「広尾」は、アレーッ、病院?ここでいいの?って感じ。皆さんと一緒の感想ですね。あまりにも静かなので、看護婦さんに「入院している人って、いるんですか?」と聞いたぐらいです。先生も白衣着てないし、変???と・・・・。「あなたの場合、筋腫の大きさより出来ている場所が問題です。(子宮内膜に突起した粘膜下筋腫でした。)でも大丈夫、元の子宮に戻せますよ。」斉藤先生の言葉は、私の一番言って欲しかった言葉だったけど、とても有り難かったけど・・。内心、腹部エコーだけで内診も無いし、もっと診察してよっ!!!!の気持ち半分でした。それでも帰りの足どりは軽く、心がすっかり元気になっているのを感じました。

7月の下旬からの生理がいつまでも終わらず、終わったかとおもった3日後、また月経様出血があり、慌ててかかりつけの産婦人科へ・・・。すぐに止めなくてはならないと、止血剤と中容量ピルのドオルトンを服用しました。

数日後、出血は止まりましたが、またここでも副作用が起こり、つわりのような気分の悪さでした。貧血はどんどん悪くなるようでした。頭まで充分に血が巡っていないせいか、忘れっぽくなり、カラダもとてもだるい。2週間の服用の後薬を止め、数日後に迎えた生理が終わらず、そのまま不正出血へと移行したのでした。

黄体ホルモンの注射と止血剤でも出血が止まらず、横になっていても「ドカドカ」と流れていくのを感じます。特大ナプキンの後ろにナイト用、ナイト用ショーツに子供のまきまきタオルで重装備しても、30分と持ちません。ナプキンを交換したくてトイレに行く時も、子供がオシッコを我慢しいるように、脚で小股を圧迫しながらソロリソロリと歩きます。そうしないと「ドカドカ」と出血して大変なことになるのです。やっとの思いでトイレに着いたら、脚を緩めて下着を下げなくてはなりません。その時に「ドバッ」と出血し、トイレがスプラッタ映画のようになってしまい、家族を怖がらせてしまいました。


●術前
術前検査を受けることが一つのハードルでした。9月。「広尾」の術前検査を目前にして、大出血。ドオルトンを内服していたにも関わらず。夜中、かかりつけの産婦人科にすっ飛んで行きました。夜勤の大学病院の先生がいらして、今までの私の経過などご存知無いのに、診察前にアレコレと、筋腫分娩じゃないか?だの、何とかして欲しいだのと言う私に、先生も主人も面食らっていました。そして主人が一言。「初めての先生にそんな事言ったってダメだろ。とにかく診察受けろよ。」ハッと我に返り、大人しく診察していただきました。

筋腫分娩の心配は無く、翌日の昼間、かかりつけの担当医に診てもらったほうが良いとの事でした。この時、私は何が何でも広尾に行くぞ!!!との気持ちで、出血を止めるために内膜を掻爬してもらうつもりでした。でも、この頃には精神的にもかなり追いつめれられていて、「大出血を起こして、私の知らない間に摘出されてしまったらどうしよう。」と、そういう暗い事ばっかり考えていました。

麻酔をかけられるのが怖かった。出血に驚き、もしかしたら広尾までいけないかも、な〜んて弱気になってました。昼間の担当の先生からも、「お産で来院していた頃のアナタじゃないわ。何をそんなに落ち込んでいるの?シッカリしなさい。」とたしなめられました。この先生はとても良い先生で、「広尾」で手術を受ける事を打ち明けたときも「患者さんが望む治療を受けられるのが一番よいことだから、それまではこの病院でできるだけのことはしましょう。」とおっしゃってくれたのです。

検査日も朝から出血しており、慌てました。処方の通り2錠飲んだら、心臓がドキドキして胸苦しい感じが・・。自分の体の変化が、かなり怖い。佐々木病院での術前検査のデータを持って、主人と二人して斎藤先生の元へ。あっさりと「元の子宮にもどりますからね。」と言われ、心底、有り難かった。

でも、地元に戻るのが怖くて、手術までの10日間、義母宅に居候を決め込みました。「何かあっても横浜まで来れたら助けますよ。」という斎藤先生の言葉がとても頼もしい・・と思っていた週末にまた出血して、半ばパニックを起こしながら「広尾」の留守電に伝言を残しました。不安な中、先生から連絡があり、薬で出血を止める事・副作用が怖ければ30分ほど時間を空けて服用することを、アドバイスいただきました。


●「広尾」での合宿日記
いよいよ運命の・・・初手術の日。あまり眠れないまま迎えた朝。手術患者は3人、私からのスタートでした。10時。看護婦さんの「さあ、行きましょう。」の笑顔。緊張。今日までよく持ったな、頑張ったな。夢にまで見た手術、半分嬉しい気持ち。手術台にのった途端、とても緊張してきた。

手術着の斎藤先生から「どうぞ、安心なさって下さい。」の言葉。勇気100倍。心配していた麻酔は、思った程痛くなく、背中を丸めた時の点滴の血が逆流した方が痛い。「もう始まってますよ。」の斎藤先生の声を、ボーと聞きながら「一生に一度の体験。もったいなくて、眠るものか。」

この時、既にお腹がパッカリ開いている事を知らず・・・・。自ずと耳を澄ましてしまう。私の子宮、どうなっているんだろう。早く「子宮も卵巣も綺麗に残りますよ。」って言って欲しい。安心して眠りたいから。そのうち、「痛み」のような感じが。「なんか、下の方が痛いみたいなんですが。」あくまで「痛いみたい」。

麻酔が点滴に入れられて、何か酔っぱらいみたいにボーとして、気分がいい。「ジーッ」という音と焦げている臭い。これが本にあったレーザーなのね。胸の皿の上に、何か細かいものを取り出している。後で知ったのだけど、これが沢山のポリープだったらしい。看護婦さんが踏み台に上り、「中の写真を撮りますね。」少し驚いたが、何となくう・れ・し・い。先生の「もう終わりましたよ。綺麗に取れましたよ。」の言葉に一瞬ドッキッとして、やったー終わったー!その直後、強烈な睡魔で意識無し。

部屋に戻って間も無く、急に悪寒がして発熱した。お腹を切ると必ず熱が出るらしい。熱くて汗が吹き出て、顔を拭きたいのだけど、うまく拭けない。主人が心配して声を掛けてくれたのに、ただ眠いだけ。時々来てくれる看護婦さんに、「眠いんです。」と言うと「良いことです。ドンドン寝て下さい。」との答え。どうして?後で知ったことだけど、麻酔の副作用で嘔吐する場合があるらしい。その点、私はとてもラッキーだった。だって、昼に終了後、夜中までウトウトずっと眠っていたのだから。

自動血圧計を管理に来てくれた看護婦さんに、「何かそろそろ麻酔が切れてきたみたいなんですけど、鎮痛剤下さい。」と私。「もうとっくに切れてますよ。ここからは鎮痛剤我慢して下さいね。」全くのんきな私だった。喉はず〜〜っと渇いていた。朝になって、ベッドの上での歯磨きが可能になる。もちろん、看護婦さんの手助けがあってこそだけど。

2日目。歯磨きから始まって歩行まで、実りのある1日。ここからは「日にち薬」と言う表現がピッタリ。導尿が外れて、自力でお部屋のトイレまで行って、排泄する時の痛み。また、そこから立ち上がる時の痛み・・。お腹を切るってこんなに痛かったのか、という感じ。痛い痛いと連発する私に、「子宮を取っても痛いんだから、ましてや残してもらったんだから我慢出来るよね。」と主人の言葉。グッと詰まりました。

午後から、看護婦さんの付き添いの元始まった歩行訓練も、夕方になると、ゾンビ歩きの患者が一人で右往左往してます。「痛いですね。」が合い言葉でした。夕食に、ヨーグルトジュースがでて、水も沢山飲めるようになりました。ヤッタッー、一気にゴクゴクいくぞ!!!とっても幸せな瞬間・・・。夜中、ザッーと水便あり。トイレももう慣れた?・・かな。

3日目。朝からウロウロ歩き、ベッドで休んでいると、斉藤先生が「歩いていなくちゃ癒着するよ。」と恐怖の言葉をかけてくれます。飛び起き(?)、皆さんと二階のソファーでおしゃべり。もう階段昇れたんだって、感動しました。

4日目。お腹の管が抜け(これが、キュっと痛いんです。)身軽になって、廊下をウロウロしたり、シャーワー浴ができてサッパリ。お昼にうどんが出ました。ここまで来ると、自分がどんどん回復しているのがよく分かります。廊下を闊歩していると「跳ねて行きそう。」と先生に言われました。

5日目。点滴が外れて幸せ。お昼には先生との昼食会で、お寿司を頂く。そのまま、お茶会に移行。初診の時からここに座ることを夢見て、叶った幸せ。患者さん同志って、お互いの摘出物を自慢して、ファイルを見せ合い、笑って・・・。私達って、これから笑えるんだ・・・。「あなたはこれからドンドン元気になりますよ。」斉藤先生がおしゃった。私の欲しかった言葉。この頃、筋腫に克ったーと何見てもニヤニヤ。

6日目。土曜日。朝に退院。電車に乗れた。元気に普通の歩幅で歩けた。当たり前の事が新鮮に映り、全てに感謝した。


●術後、帰宅してからの様子
術後2週間でお産の後の収縮に似た強い腹痛が起こり、とてもイライラした時期がありました。痛みは1週間ほど続き、お腹が少し小さくなりました。この頃、便秘に悩まされました。広尾に入院中は、ザッーと快便だったのに。先生にメールで相談すると、筋腫のせいで上へ押し上げられていた腸が元に戻っていないため、正常になるには多少時間がかかりますとのお返事でした。

11月から普段の生活に戻り、仕事に復帰。11月5日、術後初めての生理。ヤッタッー!!!!!初めの半年は生理が重く、量も多いかもと先生に言われていました。まさにその通りで、鎮痛剤を飲んで寝込みました。ただ、今までのような「塊」は全く見当たりません。多い時は、手のひら半分大のゼリー状のモノを引っ張りだした事もあったのに・・。

12月から現在(2001年6月)までの生理は、量も少なく、3日も過ぎればほとんどなくなり、不正出血も一度もありません。足かけ4〜5日間ぐらいで簡単に終わってしまいます。2日目の夜に一応、ナイト用は使うものの、もうウルトラナイト34センチは不要。生理痛もなくなり、始まる前に腰がだるくなり、お腹が少し張るぐらい。始まってからは「絶好調」です。もう生理は怖くない、怯えることもありません。

4月に術後検診でMRIに入りました。「変な物、映っていたらどうしよう。」怖い気持ち半分でした。もしかすると自分は特異体質で、再発したら?と悪いことばかり考えてしまうのでした。斉藤先生に半年ぶりにお会いして、「いい顔色になった。」と言われた時、MRIの画像の説明で、子宮は元の大きさに戻っていて心配無いと伺って、ほっとした事を覚えています。

後日、送られてきたコピーを見て、子宮上部に点状のものがあって驚きました。でも、それは子宮の上に腸が重なったために、腸の内容物が映っていると説明いただき、安心しました。


●最後に 悩んでいる皆さんへ
今、日を追うごとに斉藤先生の手術は確かだった、そう確信しています。初診時に、入院していた先輩方から「あなた、ラッキーよ。斉藤先生はこの分野にかけて日本一の腕前なのよ。」と言われ、迷っていた私の背中は押されたのでした。そして術後、ゾンビ歩きの私に「おめでとうございます。」といって下さった、フランスからの先輩。斉藤先生の手術を受けられた幸運を祝ってくださった、なんと素敵な言葉でしょう。術後検診でお会いした患者さん達にも、少し先輩ぶってこの言葉を伝えたのでした。

「広尾」のホームページを知ったことも、偶然ではなく必然だった事のように思えます。金銭的に迷っていた私に、強く勧めてくれた主人の存在も大きくなりました。今でも高かったなと言う私に、「満足している手術なら決して高い物ではない。」と主人が言います。

「広尾」を見つける前、摘出も考えていた私に「子宮があってもなくても、心は変わらないからね。」と主人は言ってくれました。ありがたくて嬉しい、でも重い言葉です。こんな主人のためにも子宮を残して元気になりたい!その一心で「広尾」に巡り会えたのだと思います。

でも、斉藤先生一人の技術を待っている方も多く、経済的にも皆がみんな受けられる手術ではないことは解っています。この事に心が痛みます。迷っている方は一度、「広尾」で診察を受けて下さい。あまりにもあっさりと、「大丈夫、綺麗に治せますよ。」と言われるでしょう。内心、多少の疑問も持ちながら、でも賭けてみようと思えれば、賭けてください。

初め、義母は保険が利かないなんて・・・と疑っていました。手術を月曜に控えた週末に、たまたま友達が「広尾」で手術したという人に会ったのです。「大丈夫、成功しますよ。友達もとても元気ですから。」その言葉にどんなに安心したかしれません。遠くて来れない私の母に替わって、何度も何度も足を運んでくれたのでした。そんな多くの偶然にも助けられてきました。

患者の大きな支えになって下さったナースの皆さん、私達の不安も話も全て包み込んでくださって本当に感謝しています。「大丈夫ですよ。」の一言で心が軽くなりました。それに皆さん、注射がお上手であまり痛くない。驚きです。

毎週月曜日になると、大忙しのスタッフの皆さんのことを思い出します。どんなに感謝しているか言い尽くせません。「広尾」は温かい所です。何回も「もう駄目だ」と思いつつ、辿り着いた場所です。今は只、ここの卒業生であることが嬉しく、悩んでいる方の役に立ちたいと思います。

諦めかけたとき、全摘も一つの根治的療法とも思い詰めました。今でも否定はしませんが、あなたの子宮です。ご自身の健康について、10年・20年先をよく考えてくださる事を願ってやみません。医師による選択ではなく、「あなた」は「あなたの体」をどうしたいか?ご自身で選択をして下さい。21世紀に病気を持ち越さない。その願いが叶って、私の中で人生がリセットされた気分です。

広尾での手術後、こんな話をしてくれた方がいました。「今のままでは妊娠できないとの医師の言葉を主人に告げた時、露骨にイヤな顔をされた。その時、自分が女として不完全な様に思えた・・・。」少子化で女が子供を産まなくなった・・そう言われていますが、そうじゃない。婦人科の疾患が増えているのにも、治療の選択肢が余りにも少ないのも一因だと思います。悩んでいる人の気持ちが、「広尾」で“まっさら”にリセット出来ますように。
術前(pre-ope)
のMRI
術後(post-ope)
のMRI
術前のMRI1 術後のMRI1
術前のMRI2 術後のMRI2

摘出物
摘出物


術 前(pre ope) 術 後(post ope)
赤血球(RBC)363457
血色素(Hb)(g/dl)10.913.0
ヘマトクリット(Ht)32.740.8
CA-12528
備考
●子宮内膜腔に突出した粘膜下筋腫      


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