「絶対子宮を残したい、この一念が「広尾」との距離を克服しました。」
レポートNo.73

山下留理子(35才)
私は、九州は宮崎在住で、「広尾メディカルクリニック」のある神奈川県鶴見区からは遠く離れています。あまり国内の遠方に行かない方にはピンを来ない距離だと思いますが、宮崎−羽田は、飛行機で1時間半くらいかかります。地元にも婦人科はありますし、大学病院だって近くにあるのですが、私は「広尾メディカルクリニック」が、自分にとって最良の選択だと思い、手術を受けました。


●友人の心配をしていたら・・。
私は中学2年の初潮から20代半ばまで生理痛・腰痛がありました。20歳頃、心配になり近所の婦人科で診察を受けましたが、年齢ともにホルモンバランスが整ってきたら治まると言われました。実際にその通りになり、生理痛はほとんど無くなったので、「自分の生理はこれで大丈夫。」と安心していました。

ところが、平成6年、28歳頃、生理に急激な変化が見られました。元々出血は少し多かったと思うのですが、始まりの1日にオシッコのような“ジャーッ”という出血があるのです。この大量出血のお陰で1時間おきにトイレに行く始末。昼間からナイト用のナプキンを使い、充分気を付けているのに失敗した事も。始まりの大量出血の後は、出血がダラダラと1週間ほど続くという生理でした。

このとき、私の友人が子宮筋腫と診断され、私は散々心配し、世話を焼いていたのですが、私の症状をこの友人に話すと「あなたの方が症状が重い気がする。マズイんじゃないの?」と指摘されました。恐る恐る病院で検査を受けたら、どうやら私の方が重症のようでした・・。


●「広尾メディカルクリニック」までの経緯
  • 平成8年5月
    地元「Hクリニック」で初診。詳しい検査のため、更に1週間後再診。この時、筋腫と診断。3ヵ月後にもう1度来るように言われましたが、治療の方針や説明は全く無く、何のために行くのか分からないので、ここはこれっきり。

  • 同年  8月
    地元「N産婦人科医院」にて診察。エコーで検査の後、筋腫が13cmほどだと分かり、手術を勧められ、というより手術するのが当たり前のように手術日程までトントン拍子に決定。2日後に術前検査。このとき、私の筋腫は「できている場所が悪い」と言われました。ひょっとしたら核摘出手術では取り切れないかも、とも言われましたが、この時の私は「手術さえすれば治る。」と勝手に思い込んでいました。

  • 同年  9月
    手術を受けました。が、術後、病室で目を覚ますと、ベットの側で母がシクシク泣いています。泣いている母を見て「ああ、全部取れなかったんだな。」と悟りました。そのほんの少し取れた筋腫を看護婦さんが見せてくれた時に、「治らなかったんだ」という実感が急に胸に押し寄せ、私も泣いてしまいました。

    術後はスプレキュアでホルモン療法をしました。9本終わった時点で6cmほどに小さくなっていましたが、スプレキュアを止めると、みるみる元通りの大きさに。その後、2月に再度スプレキュアを再開しましたが、筋腫に対してはほとんど効果はありませんでした。ただ、生理が無くなり、大出血が無いという事だけが救いでした。

    その後、平成10年7月まで、何をするわけでも・期待するでもなく、2週間に1回、経過観察のため、エコー検査、貧血検査と子宮癌検査をするために、この病院に通い続けましたが、だんだんと「このままどうする事もできない。」「いずれ全摘出するしかないんだ。」という思いが膨れ上がって、通院がとてつもなく苦痛に感じるようになり、とうとう通院を止めてしまいました。

  • 平成11年1月
    我が家にパソコンとインターネットを導入。私は自分の病気について調べました。その過程で、「広尾メディカルクリニック」のサイトを発見。私の心の中では「ここがあるなら大丈夫。」という、確信に近いヒットでした。

  • 同年   8月
    夏休みに「広尾メディカルクリニック」での初診を受けに一人神奈川へ。東京在住の友人が「そんな怪しげな。心配だから一緒に行く。」と言って、同行してくれました。私が診察を受けている間、友人は応接室のような待合室で、看護婦さんにお茶をいただいて待ってくれていました。診察後、怪しんでいた友人は「自分も悪くなったらココにかかる。」と言うほどの「広尾派」に。この時の斎藤先生は無口でチョッピリ怖かったけど、先生の説明や今までの実績で私自身は大いに納得し、「ここで治療する。」と決めました。

    手術前に家族を説得せねば・・。家族に対してどう説明しようか考えていたら、斎藤先生が手術を受けた同郷の方を紹介してくださって、「話を聞いてみるといいよ。」と。地元に戻り、まず両親に「広尾」で自分の筋腫を治療したい事を告げました。もちろん反対されました。インターネットで見つけた保険が使えない病院なんてとんでもない、というのが理由です。この時の父のうろたえようというか、引きとめようが笑ってしまえるくらいでした。

    父は「知人の姪っ子が医大にいるから、いい先生を紹介してもらえるよう頼んでみる。だから地元でいい病院を探してみろ。」と言い出しました。私自身、普通の病院では自分の筋腫は治しきれない、残された道は子宮全摘出に続いているのだと分かっていたので、誰に何を言われようと「広尾」で治療を受ける決心は揺らがないのですが、父は父で私のために必死です。頭ごなしに「そんなのダメだよ。」と否定するわけにも行かず、「そのうちね。」などとノラリクラリとかわしていました。

    母は表面切っての反対はせず、何も言いませんでしたが、その心中は父に近かったと思います。こうなったら、やはり手術を受けた方に話を聞くのが一番だろうと、両親を揃えて、斎藤先生から紹介された方に電話をしました。その方は快くお話をしてくださり、母の話にも応じてくださいました。母は納得してくれ、父は私と母の電話を聞いて、それだけで納得してくれたようでした。


仕事の休みがなかなか取りづらく、次回の診察は翌年の3月になってしまいました。この時は母も同行し、一緒に診察室で説明を聞きました。母は、私のポッコリしたお腹とエコーの画像を見て驚いていました。別に隠していたワケではありませんが、あんまり大袈裟に見せるものでもなかろうと、今まで見せた事がなかったのです。入院患者さんの摘出物のバッグを見せてもらい、「あなたのはこれより大きいよ。」と言われ、さらにビックリ。それでも私の筋腫が、子宮を残してキレイに治してもらえると分かった母はすっかり安心し、診察の後は二人してディズニーランドで遊んで帰りました。


●手術、そして現在
  • 平成12年7月17日
    手術。全然消化しきれていなかった有給休暇を一気に取って、会社を1ヶ月休みました。術後は、以前の核摘出手術よりカラダが全然楽でした。ただ、ちょっと貧血のようにフラフラしたりしましたが、それは次第に治まりました。本当に「広尾」の術後経過は楽でした。退院が早いのも納得できます。

    斎藤先生は、初診時の印象とは打って変わって、「手術したら男運が変わるんだよ。」などと冗談まじりで励ましてくれる、温かい先生でした。母も術後は先生を見る目がハートマーク。「あんな先生もいるのねぇ。」と惚れ惚れ。父は何だかんだ言って、私が子宮を残して治療できた事を一番喜んでくれました。私自身はもちろんですが、家族全部が幸せになれたように思います。


でも術後の傷の処置はNG!あまりの傷の生々しさにピンセットを持つ手が震えてしまいました。が、それも1週間そこらの辛抱。あまり傷をマジマジと見ないようにしつつ、術後の処置を続けました。そんなこんなで8月26日に、術後初めての生理が。それまで40日周期くらいだった月経周期がこれを期に30日くらいの周期になり、生理期間も2〜3日、量も少なすぎるように感じ「これでいいのかな?」と思うほどです。

現在、あんなに私を苦しめていた大出血は全く影を潜め、至って健康!後は、先生のおっしゃったように「男運」が良くなるのを期待するだけとなっています。会社に復帰しても、あまりにも普通に元気なので、「手術したんでしょう?大丈夫?」という風には気遣ってもらえませんでした。それはそれで凄い事なんですが・・。

九州の片田舎から神奈川まで、私をはるばる手術を受けに行かせた衝動は何だったのか、自分なりに振り返って考えてみました。やはり女性として、何歳になろうと子宮を全摘出するのは絶対にイヤだという一念に他ならない、と思います。残せる技術があるなら残したい、いや残すべき。

なぜ斎藤先生の技術が普及しないのか、不思議でもあり残念でもあります。一人でも多くの悩める女性に、斎藤先生と広尾メディカルクリニックを知ってもらい、自分にとって最良の選択をして欲しい、と心から思います。
術前(pre-ope)
のMRI
術後(post-ope)
のMRI
術前のMRI1 術後のMRI1

摘出物
摘出物 摘出物

摘出物


術 前(pre ope) 術 後(post ope)
赤血球(RBC)434461
血色素(Hb)(g/dl)11.013.1
ヘマトクリット(Ht)34.140.8
CA-12530
備考
●頻尿の他あまり症状はなかった。    


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