「筋腫だと思っていたら・・」
レポートNo.85

中野直美(33才)
“開けてビックリ!”・・・・。私の手術はそんな感じで始まりました。2000年9月25日に手術をして、摘出されたものは合計146g。(●内膜ポリープ 1g ●平滑筋腫 5g)

ここまでは、今まで広尾MCで手術された方のお腹からも摘出されていますが、私のお腹の中にあった一番大きい140gの腫瘍は、なんと腸の腫瘍だったのです。広尾MCに来る前の病院では「子宮の外側にできるタイプの筋腫だろう。」と診断され、さすがの斎藤先生も腸からの腫瘍だったとは思っていらっしゃらなかったようでした。

病理検査の結果には『大腸粘膜内塊状腫瘤』と厳めしくプリントされており、斎藤先生の手術記録には、大腸の外側にできたこの腫瘍を薄皮1枚残して削ぎ取るように切除したというような説明が、図入りで書かれてあります。


●出産後の急激な体力の低下
私はもともと生理は辛い方。母も若い頃きつかったと聞いていたので「遺伝かな・・。それとも自分に我慢が足りないから“痛い・つらい”って言ってるだけなのかな?」という程度の認識でした。出血量は他人と比べられないので判断のしようがありませんが、気をつけないとシーツに失敗してしまうくらいは多かったと覚えていますし、多い日は高性能ナプキンだけでは心許なく、タンポンも併用していたので、かなり多かったのかもしれません。

社会人になってから困ったのは、都心へ向かう満員電車で、生理日の通勤途中に度々気分が悪くなったりした事でした。社会人1年生時代は、市販の鎮痛剤でごまかして何とか頑張り、2年目からは就業規則で定められている生理休暇を取り、無理をしないようにしていました。ですが特に“病的”だとは感じておらず、自分では至って“普通に健康”に過ごしているつもりでした。

結婚して家庭に入ってから主婦検診を受けるようになりましたが、特に健康上の問題を指摘されるような事はありませんでした。31歳の時、2人目の子供を産んでからというもの、どうも体が疲れやすく、すぐにだるくなるような体調が続いていましたが、当時は「手のかかる小さな子供が2人もいるから疲れているのだろう。」と考えていました。今思うと、これが変調の兆しだったように思います。

昨年(2000年)4月、主婦検診でヘモグロビン値が少し低いので食生活に気をつけましょう、という程度の注意を受けましたが、これが広尾MCで手術するまでのジェットコースターのような日々の始まりでした。


●異常発見から手術までの41日
2000年7月20日頃
カゼの治りがどうも悪いようで、セキが止まりません。近所の内科にかかり、2回ほど風邪薬をもらいに行きましたが一向に回復する様子は無く、セキと微熱が続いていました。8月に入ってもそんな調子がずっと続いていましたが、「栃木の実家に帰省してゆっくりさせてもらえれば治るわ。」と楽観視。

8月9日
実家に帰省しました。4日もゆっくりさせてもらっているのに、夕方になると38度4分くらいの熱。更にWだるさWを強く感じるようになりました。これは単なるカゼではなく何らか体がオカシイのだと思い、市内の総合病院へ。その日は検査などはせず、カゼがこじれたのだろうということで、お薬を処方されて一旦帰りました。

8月16日
相変わらずの不調。やっぱり体調がおかしすぎると感じ、再度総合病院へ出向き検査をお願いしてみました。すると血液検査でヘモグロビン値5.9。即入院です。こんなにヘモグロビン値が低下しているという事は、身体のどこかから出血しているかもしれないという事で、更に詳しく検査をすることなりました。バタバタと入院・検査をしたので、どんな検査をしたか詳しくは覚えていないのですが、胃カメラを飲んだ後、「胃に異常はないけど、粘膜の色が薄いね。」と言われた事が妙に印象に残っています。貧血が進むと裏まぶたの赤みが無くなると言われていますが、胃の粘膜も赤みを失っていたのでしょうか・・。

その後MRIの画像診断で、下腹部に筋腫のような腫瘍があると分かりました。医師は「開けてみないと正確な事は言えないが、子宮の外側に大きな腫瘍があるようです。内膜症なのか筋腫なのかは開けてみないと分かりませんが。月々のひどい生理が貧血の原因と思われます。他には異常が見当たらないので・・。」とのこと。青天の霹靂とはこの事です。更に「ホルモン療法で症状を抑え筋腫を小さくしていく方法と、手術で筋腫だけを取る方法がありますが・・。」「もうお子さんを産むつもりが無いなら子宮ごと取る事をお勧めします。筋腫は核摘出しても、再発する確率が高いから。」と言うのです。私の頭の中は「え〜〜〜っ!?そんな・・」という言葉で埋め尽くされました。

OL時代の健診でも今年4月の健診でも、妊娠中ですら貧血などなく、“問題なし”と言われてきたので、自分は全く健康だと思っていたのに、“まさか自分が・・!!”と相当なショックでうろたえていました。「子宮は摘出しても卵巣は残すので、更年期障害が起こる事はないですよ。」とその医師は言っていましたが、私は「そんなの絶対ウソ!」と思っていました。「卵巣は子宮のために働いているはず。なのに子宮が無くなったら卵巣だけで満足に機能するワケがない!」と。

こうなると逆に貧血がひどすぎて助かりました。とりあえずは貧血を改善しない事には手術できないということで、そのまま入院して貧血治療を受けることに。増血剤の注射や点滴は私には合わないのか、毎回気分が悪くなります。すっかりナーバスになった私は、子宮を取ってしまうかどうするか悩みに悩んでいました。それでもあまりの体調の悪さに、「もう子供も2人授かったし、再発してまたこんなに体調が悪くなるのも困るし、摘出手術してしまおうかな・・。」と弱気な考えに流されつつ、入院の日々を送っていました。

8月24日
貧血を多少改善して退院。8月30日にはヘモグロビン値8.6、9月6日には10.7まで回復し、手術できる数値まで上がってきました。弱気になっていた入院中、「実家にいる間に手術を受けた方が、家族にも負担をかけずに済むし、これからが楽なんじゃないか・・?」と無理に自分を納得させて、9月10日に入院・9月12日に摘出手術の予定を入れましたが、入院中、子宮の摘出をイヤがって悩んでいた私に、主人がインターネットで探してわざわざプリントして見せてくれた“広尾メディカルクリニック”が気になって仕方ありません。半信半疑でしたが子宮を残すためには選択肢がありません。あれこれ思い悩みつつも冷静に考えて出た結論は「やっぱり子宮を取ってしまうなんてイヤだ・・!!」でした。

9月7日
やっぱり子宮全摘なんてイヤ!広尾MCに行ってみる!と決心し、「気になる病院があるので、いちおうそちらでも診察を受けてみたいし、一度横浜に戻って摘出するかどうか考え直してみたいんです・・。」と手術の中止を申し出て、手術はキャンセルし、逃げるように横浜に戻りました。そして実家から予約しておいた広尾MCに行ける日を待ちました。

9月19日
待ちに待った初診の日。ラッキーなことに、この日の夕方に佐々木病院のMRI予約が取れたので、MRIを撮ってもらい更に詳しい診察をしてもらえました。「これはもしかしたら卵巣が腫れているのかもしれないね。」とおっしゃる斎藤先生の言葉、やっぱり来てみて良かった。私の貧血の数値が普通ではない事を考慮してくださり、貧血の状態が長く続くと色々な臓器に負担がかかってタイヘンな事になる、という先生の判断で、「来週なら手術が入れられる。」とおっしゃってくれました。

しかし、手術日が迫っているので、すぐに「9月25日に手術を受けるかどうか」を決めなくてはならず、あまりにも考える時間の無い状況でした。その手術日は、ちょうど主人が出張で不在。大事な仕事ですし日も迫っているので出張の変更はできないとのこと。そんな状況で入院・手術を受けるのは不安でしたが「一刻も早く手術したい!」という自分の思いに軍配が上がり、「どうしても25日に手術したい。」と言う私に、主人は「自分がいない時に何かあったらどうする?!」と随分と心配していましたが、栃木から母が来てくれるし、義母も協力してくれるだろうと、やっぱり手術はその日に受ける事にしました。手術費用、説明を伺ったときはビックリし、主人も驚いていましたが「手術を受ける本人が納得して手術を受けるならいい。」と言ってくれました。お金はまた貯めればよいのだと思い、手術を受ける決心がつきました。


●開腹してみたら・・
あれよあれよと言う間に迎えた手術日。私は1番最初でした。栃木から母が立会いに来てくれ、子供達の面倒は横浜の自宅で義父母に見てもらう事になりました。手術室に行き麻酔がかかり、いよいよ手術。広尾MCの麻酔は”硬膜外麻酔”といい、痛み以外の感触は感じるし、意識もあるという麻酔です。なので私も麻酔がかかった後も意識はあり、周囲の音声もハッキリ耳に届いていました。

そろそろお腹を開いた頃かしら?と思っていたら、手術室の空気がピリッと変わりました。「これは・・ボソボソ・・・**先生に電話して・・ボソボソ・・。」と、何だか落ち着かない雰囲気。お腹を開かれて身動きできない私を一気に不安が襲います。『どうしたのかな?見立てより症状が悪かったのかな・・?』不安な思いのまま手術終了。先生から「子宮筋腫ではなく、腸にできている腫瘍だった。」と説明を受けました。そして「腸からの腫瘍も処置したが、私は腸は専門ではないので、何かあったら困るから専門医のいる病院に転院してもらう。」と。持たされた手術記録には“大腸手術。術後ケアーのため専門医がある中央総合からの大和田先生、森田先生にお願いします。”と書いてありました。

術後2日経った27日水曜日の夕方、先生の運転するベンツのシートに横たわり、主人の車を伴って津久井郡の森田病院に転院しました。通常、斎藤先生の術後は3日ほど下腹部からの管を着けて過ごすらしいのですが、私は腸をいじったためか鼻〜喉を通って胃の方にも管が入っていて、2日目の昼下がりから歩かされるというリハビリも無く、転院の日まで身動きできず、ひたすら痛みやつらさを耐えていました。この時の私は、付き添いの看護婦さんの肩を借りなければ、フラフラして歩く事もできない位でした。


●ひとりぽっちの入院
転院先の森田病院でも個室だったので、病気について誰かとおしゃべりして気を紛らわすという事もできず、同期入院の人もいないちょっと寂しい入院生活。一人ぽっちだと「ガンだったらどうしよう・・、でもガンだったら痩せてくるだろうから違うはず・・」と、良くない事結果ばかりが頭を巡ります。摘出された腫瘍たちの写真は気持ち悪く、グロテスクに感じました。この一番大きなモノ(腸の腫瘍)の周囲を腸が取り巻き、お腹の中はタイヘンな状態だったようです。

ひとりぼっちも寂しかったけれど、辛かったのは断食状態が長かった事。25日が手術なので24日のお夕飯から断食です。私が水を口に含ませてもらえたのは29日になって。斎藤先生から「病理の結果は良性だったよ。」と連絡をいただき、不安が消えた日でした。その日は黒い水状の排便もあって、術前にお腹を空っぽにして5日間も食べていないのに何だろう?と思っていたら、先生から「血やその他の分泌物が排泄された。」と説明があり、一安心でした。このまま順調に回復して欲しい・・。

30日の夕方に流動食が出て10月1日から三分粥、普通の食事を食べられたのは7日になってからです。先生からも「腸の中が細くなっている。」と聞いていたので、なるべく負担をかけないよう、良く噛んでゆっくり食事をするよう心がけました。

腸を手術したため、お腹の管も普通の人より長く着けていたようです。管を抜くとき、「管にお肉が巻きついてる!!』と思うくらい痛かったし、抜いた後も『管の先がお腹に残っていたりして・・・。」と思うくらい、ズキズキと痛みました。

当初の予定では“9月末に退院、10月7日は子供の運動会!”と家族で楽しみにしていましたが、それどころではありません。結局、また実家の母に来てもらったり、義父母に頑張ってもらい、何とか運動会の日を迎えられてホッとしました。10月10日に退院、一旦横浜の自宅に帰り、翌日には栃木の実家へ行きました。目の離せない子供だけを連れて“リハビリ里帰り”です。そして10月26日。幼稚園が大好きな長男を長期間休ませるのも可哀想だし、だいぶ体調も戻ったので、横浜の自宅に戻ってきました。


●その後
術後の生理は、出血量は少し減ったかしら?という程度の自覚ですが、レバー状の塊は一切なくなったので実際は随分と減っているのだろうと思います。辛かった腹痛や腰痛も今ではほとんど無くなっています。生理になると具合が悪くなるほど辛かったのに、今はだいたい普段と同じように暮らせます。術前は腸の腫瘍に膀胱が圧迫されていたのか頻尿気味でしたが、それも解消しました。貧血もすっかり改善されたので体調も良くなり、子供二人を相手に毎日元気に過ごしています。

私の場合、「子宮全摘」と言われてから広尾MCで手術するまでの期間が短かく、すぐに決心しなくてはならない状況に追い込まれたため決断も早かったのですが、この体験談を読みながら迷って悩んでいる方は多いと思います。しかし斎藤先生の後継者が育たない限り、先生の技術は先生一代限りで終わりかもしれません。(そんな事の無いように祈りますが・・。)決して急かす訳ではありませんが、半信半疑でも、診察だけでも受けられる事をお勧めします。そして出来るだけ多くの人たちに、早く元気になって欲しいと思っています。

実家近くの病院で入院していたあの時、自分を騙して子宮を摘出していたら、今頃どうなっていたんだろう?身体はもちろん精神的に・・。想像もできません。斎藤先生は、私のお腹を開けた時にはさぞや驚かれたことと思いますが、それでも冷静な判断のもと最善を尽くしていただき、そのお陰で今の健康な私がいるのです。先生には本当に、言葉では言い尽くせない感謝の気持ちで一杯です。また、転院を受け入れてくれた森田病院の先生方にも、本当に心から感謝しています。ありがとうございました。
術前(pre-ope)のMRI 術後(post-ope)のMRI
術前のmri1 術後のmri1 術後のmri2

摘出物
摘出物


術 前(pre ope) 術 後(post ope)
赤血球(rbc)4204311
血色素(hb)(g/dl)11.713.6
ヘマトクリット(ht)35.840.7
ca-12534-
備考
●大腸粘膜内の腫瘍
●子宮腺筋症


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