「"もとの体にもどりたい"と泣いた妻の入院その前後」
レポートNo.2

栗田 典明
■妻の異変
私が「子宮筋腫」という言葉を初めて聞いたのは、平成9年1月10日でした。

私達夫婦は前年の9月に結婚し、私の仕事の都合で挙式後に新婚旅行に行けなかったため、年明けの正月休みを利用して新婚旅行の代わりに北海道に3泊4日でスキーに行きました。初めの予定では、この間は妻の生理期間にはかからないはずでしたが、どういうわけか生理期間にかかってしまい、妻も結構苦労してスキーを楽しんでいたと思います。

ところが、スキーから帰ってきて、生理がちょうど終わったはずなのに、その日の夜中に大量の不正出血がありました。今にして思えば、夏ごろから「生理の際の出血が多くなってきた」とか、「生理の周期が変わってきた」というようなことを言っていたことを思い出します。

夜が明けてから、その日は市民病院に診察に行きました。この時は、私が市民病院まで送って行ったのですが、私は「きっと疲れて体調が悪くなっているのだろう」ぐらいに思い、そのまま職場に行きました。

私が帰宅して聞いた言葉が「子宮筋腫」でした。直ぐに手術をしなければいけない、ということでした。ただ、結婚して間もないということで、本来なら「全摘」するところを「核出手術」を行うということでした。私にとっては「全摘」という言葉も「核出手術」という言葉も初めてで、混乱してしまいました。漠然と、市民病院で手術することになるのだろうか、子供はできないかもしれないな、と思いました。


■「もとの体にもどりたい」
後日、もう一度検査がしたいと病院から連絡があり、検査の結果は、今から考えると幸いなことに(ここで手術をしなかったという意味で)、出血による貧血がひどいため貧血をある程度改善してからでないと手術ができないというものでした。

結局、妻も仕事をもっていたため、会社の近くの内科医で貧血の治療を続けながら様子をみることになりました。当然ながら、市民病院ではホルモン剤を処方してくれました。

その間、妻は自分の母や友人に相談して、色々な医者に診てもらいました。漢方を治療に取り入れている個人医院や国立病院にも行きました。広尾ではよく聞く話ですが、御多分に洩れず、個人医院では「暫く様子をみましょう」といわれ、国立病院では「本来なら全摘ですが、まだ若く結婚したばかりなので、仕方がないので一部を残すようにします。直ぐに手術しましょう」といわれました。そのころになると、私達は子供が欲しかったということもあり、少しづつ追い詰められていくような感じがしました。

国立病院の産婦人科では、多くの患者、妊婦が仕切りの無い診察室で診察を受けており、子宮を全摘するかどうかという診察を受けている妻のとなりで、妊婦が定期診察を受けていたため、そのことに妻はかなりショックを受けたようでした。そのうえ、ホルモン剤の為かどうかわかりませんが、体調が悪かったこともあり、その夜、いままで気丈だった妻が初めて私の前で号泣しました。その時の妻の言葉を今も忘れることができません。「もとの体にもどりたい」。


■広尾との出会い
実は、私と妻が広尾のことを知ったのは、妻が子宮筋腫と診断されて直ぐの頃です。子宮筋腫といわれて、どのように調べたらよいだろうかと考えていた時に、とりあえずインターネットで調べてみようと思い、今では有名な検索サイトで「子宮筋腫」と入力してみました。

結局3件見つかり、そのうちの1件が当時産声をあげたばかりの広尾のホームページでした。その時は、内容をプリントして妻に渡しましたが、内容が内容だけに俄には信じられないということと、所在地が横浜という地理的な条件もあり(私達は名古屋に住んでいます)、そのままになっていました。妻にとっては、手術のために横浜まで行くことなど思いもよらなかったのです。

そんな状況のなかで、先述した国立病院でのことがあり、藁をも掴む思いで2月の初めに広尾に電話をし、診察の予約を入れました。


■手術を決断するまで
2月の中頃に2人で横浜に行きました。初めて見る広尾メディカルクリニックは、ホームページで想像していたのとは違い、かなり小さいと思いました。中に入り、入り口のソファーで待っていると2階から斎藤先生がゆっくりと降りて来ました。私が思い描いている病院の風景とは余りに違うので、この時いったい自分がどこにいるのか分からなくなったと同時に、夢のような現実感のない感覚になったのを覚えています。

斎藤先生は診察を終えると、あっさりと「大丈夫です。子宮は残せます」と言いました。それを聞いた時には、やっと一筋の光が見えたような気がしました。幸いなことにその時期は予約が比較的空いていて、直ぐにでも手術が可能ということでした。ただ、妻も仕事をもっていたため直ぐには返答が出来ず、後日、電話で連絡をすることにして、この日はそのまま帰ることにしました。

広尾から鶴見の駅まで車で送ってもらいました。車を降りると、そこには「日常」がありました。夢から覚めるような感覚になり、この先生を信用してよいものかどうか、不安になりました。妻も同じように考えていたようで、帰路の新幹線では最終的に手術をお願いするか否かついて妻とずっと話しをしながら帰りました。

結局、斎藤先生にお願いしよう、という結論になり、妻は会社の上司に理由を話し、2週間の休みをもらい、3月3日に手術を受けることになりました。


■入院・退院
手術当日は、私にとっても長い一日でした。前日の日曜日に車で横浜まで来て、朝から広尾に入りました。妻のほかに北海道から来た患者の方もいて、付き添ってきたご主人が帰る飛行機の時間のこともあり、その方が先に手術を受けられました。その間、私は妻や先に手術をされている方のご主人と色々と話をしました。北海道の方も、私と同じように同じ検索サイトで広尾のホームページを見つけて来られたとのことでした。

妻の手術の開始予定は午後3時頃からと聞いていたのですが、先の方が長引き、結局5時頃から手術が始まりました。終わったのは7時頃で、手術室から病室に移った妻と30分ほど話をしてから、看護婦さんに後をお願いして横浜を後にしました。

広尾では、土曜日は退院の日です。私は仕事の関係で退院の前日まで行くことができず、当日の朝に横浜まで迎えに行くつもりだったのですが、たまたま斎藤先生が関西方面に用事があるとのことで、途中まで先生に送っていただくことになりました。

駅のホームで待っていると、先生と妻が乗った新幹線がホームに入ってきました。先生も妻と一緒にホームに降りられ、内容はもう覚えていないのですが、2、3言葉を交わし、最後に握手をして先生と別れました。先生は再び新幹線に乗り込まれ、ホームを後にしました。


■術後に長女誕生
FAMILY以上が私の体験談です。今から考えると、妻の子宮筋腫がわかってから広尾での手術、退院まであっと言う間の2ヶ月でした。広尾の患者さんの体験談を読むと、広尾にたどり着くまで何年も筋腫や腺筋症で苦しまれている方がいます。それを考えると、私達はまだ幸運だったのかもしれません。

途中でも書きましたが、妻の症状が急激に悪化して貧血状態になり、手術まで少し考える余裕のできたこと、広尾がホームページを開設していたことやインターネットがまだあまりなじみの無かった時にそのホームページを閲覧できる環境にあったこと、正直なところ初めは胡散臭いと思った広尾を訪ねるきっかけを与えた国立病院での出来事、すべては2ヶ月の間のことでした。

そして、今は1歳5ヶ月になる娘がいます。手術を受けて1年がたたないうちに妊娠し、妊娠中の経過も順調でした。これも斎藤先生に出会えたおかげだと思って、感謝しています。

最後に、私の拙い文章を最後までお読み下さった方へ。もし、あなたが、或いはあなたの身近な人が子宮に病気をもっていて、このホームページをご覧になっていましたら、「もとの体にもどれる」、或いは「もとの体にもどしてやる」というふうにお考え下さい。斎藤先生の手術によってそれが可能であることは、術後に妊娠、出産した妻の例からも十分おわかりいただけると思います。

栗田貴久子さん(29歳)のデータ

術前(pre-ope)のMRI 術後(post-ope)のMRI
術前のMRI 術後のMRI


術 前(pre ope) 術 後(post ope)
赤血球(RBC)39.4439
血色素(Hb)(g/dl) 10.613.5
ヘマトクリット(Ht) 33.840.5
備考
長年生理の量が多く血色素5.5と言われた事もあり、
ホルモン治療は無効だった。
●摘出物  :    141g
●内膜腔に突出した粘膜下筋腫


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