「検査から手術までのあれこれ、2年経った今でも鮮明に覚えています」…レポート・その2
レポートNo.16 

楠本浩子(37歳)
●手術を決心
一縷の望みを託して書いた手紙に先生はすぐお返事をくださいました。たくさんの資料も添えて…。そのお手紙には、「かなり大型の筋腫のようですが、まずは子宮を救えると思います。…貴女くらいの大きな子宮筋腫の患者さん数百例は救い続けています」とありました。その自信あるお言葉に、こんな大きな筋腫でも斎藤先生なら必ず助けてくださるんだと確信するとともに、斎藤先生に手術していただこうと、その時、心に決めていたのです。

95年の8月30日に初めて広尾メディカルクリニックへ電話をしました。先生のお手紙にも「MRI等の検査日を予約してから来られるとはかどります」とありましたので、「できるだけ早く検査をしていただきたいので…」と申し出たところ、「明日までに検査の日を決めておきます」とのことでした。翌朝、電話を入れると、検査は2週間後の9月13日に決まっていました。


●苦しかったMRIの検査
検査当日、朝早く岡山から新幹線で新横浜へ。そして、JR鶴見駅から歩いて佐々木病院までなんとかたどり着きました。

午後1時半より検査となり、検査衣に着替え、生まれて初めてMRIとCTを体験することになりました。しかし、このMRI、通常ならストレッチャーに寝ているだけでいいのですが、私にとっては1時間近くも仰向けになってじっとしているということは、たまらなく苦痛でした。

CTはMRIより短時間でしたが、これもまた仰向け状態で機械が1〜2センチくらいずつ移動しながら作動するため、じれったくて、まだかまだかという感じでした。

汗ぐっしょりになってMRIとCTを撮り終えた後、胸部レントゲン撮影、そして心電図もとり終え、長椅子で少し休んでいると、「楠本さん、すみませんが、もう1度、MRIを撮り直しますので…」との声が。「えーっ!!もう1度!?ウソでしょー!!」、筋腫があまりにも大きかったので、撮りきれなかったらしいのです。


●まるで火葬場の炉の中のよう
さらに1時間の苦痛が始まりました。再度、ストレッチャーに乗せられてMRIの中へ。検査の途中、もはや耐えきれず目の前にあったボタンらしきものを押してみました。すると、技師の方の声がして「あ、動かないでください」。しかし、私はマイクらしきものに向かって「気分が悪いんですけど…」と訴えてしまいました。技師の方は「あと10分ほどがんばってください。それで、おしまいですから」…。

そう言われてからの10分というのが異常に長く感じられて、「早く私をここから出してよー!!」とか「もういいから、このまま私を殺してー!!」などとずっと心の中で叫んでいました。MRIの作動中は、体に響くほどのかなり大きな音が聞こえ、それがなんだかモクギョの音にも似ていて、まさに火葬場の炉の中に入れられた気分でしたから。

MRIからやっと出られた時にはストレッチャーに汗の人型(ひとがた)ができていました。その後、血液検査と尿検査を終えて、これで全ての検査が終了。あとは広尾に電話を、と思っていると、事務長さんが心配して車で迎えに来てくださっていました。


●カルテに「巨大子宮筋腫」
佐々木病院から車で5分ほどの住宅密集地の中にぽつんと広尾メディカルクリニックはありました。中へ案内されてびっくり。およそ病院とは思えない、プチホテルかペンションのよう。ポカンと見とれていると、2階から白衣姿の斎藤先生が階段をスタスタと降りてこられました。

「初めまして」の挨拶もそこそこに、開放的な診察室に通されました。さっそくMRIのフィルムをご覧になるやいなや、先生は「すごいね」と一言。そして、カルテに「巨大子宮筋腫」と書かれているのを、私はボーッと見ていました。私も初めて実際に自分のおなかの中を見たわけですが、我ながら「本当にすごいな」と思いました。

おなかの中が筋腫でぎっしり詰まっていて、ほかに何もない。胃や腸はいったいどこにあるのか見あたらない。それどころか、筋腫が背骨も巻き込んで、背中にまで達している…。

胃も腸も何もかも胸のあたりに押し上げられているらしく、先生は「よくこれで食べて排泄できていることだよね。よほどあなたが鈍感なのか我慢強いのか」とおっしゃり、「でも、ちゃんとした子宮が残っているから、子宮は元通りになるよ。救えるよ」と言ってくださいました。

その言葉に「やった!!」と私は心の中でガッツポーズをとりました。この言葉が聞きたくて、私はここまでやって来たのです。もう安心です。


●待ち遠しかった手術
「救えるよ」と言ってくださった先生の言葉は決して意外な言葉だとは思いませんでした。なぜなら、斎藤先生なら必ず助けてくださると信じていましたから。こうなれば、できる限り早く手術していただきたくて、手術は19日後の10月2日に決まりました。

帰りの新幹線の中でも、体はあちこち苦痛だらけでしたが、これも10月2日までの辛抱だと思うと、心の中はさわやかでした。

それからは1日1日と手術の日が近づいてくるのが嬉しくて、早くその日が来ないかな…と待ち遠しかった。なんでもできる健康な体になれるのですから。何年も得られなかったものがもうすぐ得られるという喜びでいっぱいでした。

手術前日、母と広尾の近くのホテルに1泊し、大きなおなかで過ごす最後の夜を迎えました。数日前から例のごとくパンパンにおなかがふくれ上がる時期に入っていたので、ホテルでも夜中にベッドに起き上がって痛みを凌いでいました。

手術当日、9時に広尾に到着。2人目の手術ということで、その時間まで暢気なことに母と2人できれいな病室でポーズをとって写真を撮ったり、テレビを見たりとリラックスして過ごしました。


●助手の先生が「臨月ですか?」
1人目の方の手術が無事終了し、いよいよ私の番となりました。ドラマのように身内の人に「がんばって!」なんて言われながらストレッチャーに乗せられて行くのかと思ったら、手術室まで自分で歩いて行って手術台に上がるので、なんだか拍子抜けという感じでした。

そして細い手術台の上で、腰椎麻酔をするためにエビのように丸くなるようにと言われました。”平均台の上のおなかの大きな裸の曲芸師”…そんな奇妙でアクロバチックな格好を想像すると、これから手術だというのに、なんだか笑えてしまいました。

アイマスクをされ、口には酸素吸入器がつけられました。「いよいよこれからなんだな」と少し緊張していると、助手の先生が「臨月ですか?」。おそらく、私のおなかを見て思わず口をついて出たのでしょう。すると、斎藤先生が「いや、シキュウキンシュ!!」と返されているのが聞こえ、「あー、言われると思った…」と思ったものです。

「よろしくお願いしまぁす」とベッドの上から言うと、「大丈夫」というように看護婦さんが私の左手をトントンとたたいてくれましたが、その間にすでに私のおなかではカチャカチャと筋腫の取り出し作業が始まっていました。「えっ、こんなにもいきなり始まるものなの?」と戸惑ってしまいました。


●遠のく意識の中で「先生、助けて!」
途中、スーッと意識が遠のいていく感覚が何度かありました。酸素吸入器を持つ看護婦さんの手が絶えず私を揺さぶり起こしていました。

血圧がどんどん下がっているらしい…。息苦しい…。輸血を始めると少し楽になって、手術中の音をまた聞き取る余裕も出てくる。先生が「カンシ」と言われると、体の中のものを引っ張ったり、取り出す感覚もわかりました。

でも、また、すぐにスーッといってしまいそうになるのでした。周りでは、輸血用の血液が足りなくなって、緊急に取り寄せている様子で・・・遠のく意識の中で「先生、助けて!」と叫んでいました。

しかし、最後にすごい早さで縫合されているのは、なんとなくわかりました。そして、手術直後、先生が「楠本さん、お母さんが泣いて喜んでいるよ」と教えてくださいましたが、うなづくことしか私にはできませんでした。

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HIROO MEDICAL CLINIC