「摘出した筋腫を目の前にした時“コイツが私を苦しめていたのだ!”と思ったと共に“よくもまあこんなに大きくしてしまったなあ”と複雑な気持ちでした」
レポートNo.25

宮部敦子(40歳)
●トイレで決意 なんとかしなくては・・・
このHPをご覧になっている方は、筋腫や内膜症をかかえて困っておられる方、家族にそういう方がいてなんとかしてあげたいなと思っておられる方などさまざまでしょう。私も、つい数カ月前には同じような気持ちで患者としてこのHPをみていました。

手術に先立つ2カ月ほど前、私は軽い気持ちで『子宮』というキーワードから探りあてた広尾メディカルのHPをみていました。しかし、そこで次々と展開されている実証データを目の当たりにし、このクリニックで私も救われるかもしれない、とにかく一度行ってみようという気になるのにさほど時間はかかりませんでした。しかし、本当に私の子宮も元どおりになって、以前の健康な私に戻れるのか、それについては半信半疑の気持ちであったと思います。

広尾メディカルを訪れる頃、私の毎月の生理の出血量はままならぬ状況でした。 2日目、3日目の夜には子供のおねしょ防止用のパッドをあてなくてはならないほど、すごいものでした。それをあててすら1時間から2時間おきに起きなければ出血でベッドが汚れてしまうので毎月睡眠不足でふらふらしていました。さらには出血がとまったかと思われる9日目や10日目ですらまた大量の出血で出張先の空港で洋服を汚し冷や汗と涙を流したこともあります。トイレにいくたび、流れ飛び出て止まらない血や、まるで挑戦的な勢いで飛び出すレバーのような血の塊をみながら、こんな人生をあとどれ位我慢すればいいのか、こんなことならもう子宮をとってしまって楽な日常を送りたい、そこまで追い込まれていました。

生理の量というのは、そもそも他の人とは比較できません。ですから廻りで生理の量が多いのよという話はよく聞くものの、それがどの位異常なものなのかわからないまま耐えていました。結果それがさらに子宮を悪くしていたとも思わず・・・

いつかは血が少なくなるのではないかそんな漠然とした全く根拠のない希望をいだかざるを得なかったのは、その時点で通っていた都内の病院の医師から「全摘しかありません、もう全摘の大きさです。」と宣告されていたことが大きな要因です。

気持ちの半分では全摘も、もはや、やむを得ないと覚悟しつつ、友人に紹介してもらい全摘した40代の女性に電話で彼女がどのような状況で全摘をきめていったのかを聞いていたりもしていました。 私も近いうちに覚悟を決めよう、そんな矢先に出会った広尾メディカルのHPでした。


●頑なになっていた私の気持ちを氷解してくれた田中さん
広尾メディカルを訪れた5月13日、私はこれだけは聞こうと思ったことをまとめたメモを片手に気合いを入れて先生の部屋へ入っていったことを覚えています。多分、相当緊張もしていたし、顔はひきつっていたことと思います。 今度こそこれで決着をつけたい、もう「様子をみましょう」などと言われたくないし、もうそう言われても後に引けないくらい私の子宮も精神も抜き差しならない状況でした。

「どうしてこんなになるまで放っておいたの?」先生にそう言われても、放っておいたというより私は努力していたのに、という気持ちでした。漢方もハリも何もかもやっていたのに・・・と。今までの病院での不快な体験があるため私自身多分かなり頑なになっており、猜疑心もかなりであったと思います。おおげさに言えば婦人科全般の治療に対して・・・

エコーで診療を受け説明を受け、子宮は残せますという先生の診察をもらっても、本当にそれで私の生理は軽くなるのか、その点について確信をもてなかった私は思わず先生に「本当に軽くなるのでしょうか?」と尋ねました。先生は「では、2階に今入院中の患者さんがおられるから聞いてみたらいいよ」とおっしゃり2階へ。そこでは月曜日に手術し、わずか2日後の患者さんがパジャマ姿で点滴をしながらも元気そうにソファに座っておられました。
そこで二人の患者さんにどうして手術をするに至ったかとその当時どの位生理の量が多かったかを聞きました。ずいぶんぶしつけだったと思います。でももう必死の思いでした。

ところが、患者さんのお二人は共に20代でした。当時40歳になったばかりの私は20代の方だし、それに私よりは全然軽いじゃない、とそれでも本当に治るのかとまだしつこく疑問を抱いていました。そこで私は、さらに先生に「でも先生、お二人とも若いし、私ほどすごい生理ではなかったみたいなので・・・」と話すと「しょうがないなあ、そんな血の量を争ってもしょうがないんだけどねえ、じゃあね、一人田中さんという方を紹介するからね、今、電話してみるから、この人もすごい貧血だったから話を聞くといいよ」とその場で電話してくださったのです。

この電話が結果的には私が手術をする決意をした大きな一歩となりました。 田中さんとは今でも電話をしあうお友達となりました。彼女に出会っていなければ多分決意が遅れたことは間違いありません。彼女はその電話をした日つまり5月13日初診の日に心良く仕事先の駅前の喫茶店で会ってくださいました。

荻窪の駅で待ち合わせ喫茶店に入ると私は症状と経過、そして未だ手術をするかどうかは迷っていることを一気に話しました。彼女の手術前の症状と私の症状はかなり近いものもあり、年齢的にも全く同じということで私は確信の質問、本当に生理は軽くなるのかを聞きだしたと思います。
彼女がそれに対してとても静かな口調で「だいじょうぶよ、私も今では手術前の10分の1位の生理の量になったのよ。今ではもの足りないくらいだし、今ではどこでも旅行にもいけるのよ」と決して説得するような口調ではなく、安心感を与える落ち着いた態度で相談にのってくださいました。「先生はとてもいい先生、私は本当に良かったと思っているの。ただし私はサクラでもなんでもないわよ」と笑いながら答えた時、私はほぼ決意を固めていました。あとは家に帰って夫と話してみよう、そう思って明るい気持ちで電車に乗っていました。 帰宅後、夫と相談、夫は子宮が残せるというならばそれが一番と快く承知してくれました。

先生は3ヶ月検診でお会いした時にも「僕のことはすぐに信用できないのに同じ患者さん同士ということですぐに信頼できるんだねえ、やっぱり医者より患者同士なのかなあ・・・」と口惜しそうに私におっしゃるのですが、それに対して私は「いいえ先生を信用できなかったわけでなく、ほぼ8割心を決めていてもあと2割で確信をもって背中を押してくれる同じ病気の仲間がいたことで私はここまでスピーディに安心して決められたのだと思います」と答えました。

最終的には自分が決意しそして夫がそれをサポートしてくれたことではありますが、田中さんを紹介され同じ体験者の情報をまさに生の声で聞けたことで私は安心して手術に望めたわけですから、先生の電話とそれを受けてくださった田中さんの温かさ、それで私は救われたと思っています。


●克明な手術レポートと斎藤先生の自信
先生のこういった暖かい配慮は入院中もたくさん感じました。 先生は寸暇を惜しんで手術をした患者さんの手術報告書を克明に記録として残してくださりそれを退院までには1冊のファイルにしてくださいました。手術中の処置や手術前のMRIの映像、それと摘出した筋腫の写真なども添えてリアルなレポートができ上がっていました。私はそのレポートをいただいた時、先生の自信に満ちた治療の結果が私のからだの中でまたあらたな子宮となって生まれ変わって生きているんだなと感動しました。

手術後最初の生理が来た時、私はあらためて全摘しなくてよかったと確信しました。 夫も両親も中学生で最初に生理が来た時のように喜んでくれました。 本当に普通の生理、この2年ほど異常な生理に悩まされていた私にとってはまさに生まれ変わったような気分でした。


●手術日は田中さんの誕生日
一旦決意すると早く手術の日がくればいいなと皆さん感じられると思います。決意するまでなかなか辛いですよね。私も仕事の段取りをつけ、手術日を決めてほっとしたところで田中さんに報告しました。「6月22日に決まったのよ」と話すと「えっ?!私の誕生日だわ、きっとうまくいくわよ〜」と言われ何か見えない糸でつながっているような気がしたものです。

手術日に病院にどきどきしながら到着すると看護婦さんが「お手紙ですよ〜」と封筒を渡されました。田中さんからの「がんばってねカード」でした。そこでもまた私は彼女の優しさにふれ、私もよくなったら何か役にたてるよう同じ患者さんのために情報を提供しよう、その為にもまずは手術を乗り切ろうと思えたのでした。


●入院中の出会いと励ましあい
手術後1日目はじめて同じ日に手術をされた藤井さんと会いました。何せ同じ屋根の下で隣同士の部屋で手術後のつらい一夜(といっても大丈夫です)を過ごした仲間です。先生から紹介されそれからはもう毎日2人で点滴片手にお互いの部屋を訪問しあい、話をしたり食事を一緒に食べたりで仲良くなり、その後今だに電話で連絡をしあっています。退院後も傷口の状況などをお互い報告しあい退院後の日々をとても安心できました。

私は手術日の夜はナースコールを握り締め何度も看護婦さんを呼んでしまいおそらく多大なご迷惑をおかけしたと思うのですが、彼女はたった1度ほどしか看護婦さんを呼ばなかったとっても強い女性で、私はここでも彼女の強さと明るさに支えられて入院生活を乗り切りました。

もちろん暑い中お見舞いに来てくれ、ファックスでメッセージを頻繁に送ってくれた夫やそして両親、妹夫婦には感謝しています。


●同じ気持ちでがんばる
症状の違い、広尾クリニックに出会うまでの経緯の違い、年齢の差、未既婚の差、出産経験の差などももちろん患者さんそれぞれで異なるとは思います。ですが、健康になりたい、しかも子宮を残したいという思いがありそれを実現してくださる斎藤先生がここにおられ、斎藤先生もご自身の人生をかけてやっておられるのですから、先生を信じて自分もがんばってみよう、そんな気持ちが出てくればもう決意が固まるはのはすぐです。 患者同士の交流もオープンで自由なこの広尾クリニックで手術をして精神面でもずっと楽に乗り切れたと思います。
術前(pre-ope)のMRI 術前(post-ope)のMRI
術前のMRIその1 術後のMRIその1


術 前
(pre ope)
術後3カ月
(post ope)
赤血球(RBC)(x102/ul)390481
ヘマトクリット(Ht)(%)32.242.4
血色素(Hb)(g/dl)10.513.5
CA-12561u/ML18u/ML
備考 摘出物 : 筋腫:335g 内膜ポリープ:0.1g
病理:leiomyoma.polype.no malig

●通院略歴
32才 東京女子医大にて一通りの不妊検査を受ける。その時点で筋腫は発見されなかった。
34才友人の紹介で都内クリニックにて筋腫が指摘されるが、卵大の大きさであり様子を見ましょうということになる。
34才〜36才漢方でなんとか筋腫を治そうと考え銀座の不妊専門の漢方センターで2年ほど漢方薬を煎じて飲む。この頃から血の塊が生理時にでるようになり、それを報告すると漢方医はそれは筋腫がつぶれているからですと言われ信じて飲み続けた。 しかし一向に改善されないまま2年続けることとなる。
36才再度同都内クリニックを訪れると筋腫がとても大きくなっていますとうこと。突然の全摘出宣告。あっけにとられながらも、漢方にも見切りをつけ、やめる。新たな病院探し開始。
37才この頃から貧血がひどくなり、毎月の出血も増える。
38才都内病院で子宮頚部の癌検診をしたところ上皮内癌の疑いがありということであわてて再検査。そこでも筋腫があるから子供はあきらめた方がいい。もう全摘してしまった方がいいでしょう。癌の疑いもあるし、と簡単にいわれる。
そこでさらに別の都内大病院を友人に紹介してもらいそこでどうするべきかを相談。
そこで頚部だけレーザーで円錐切除すれば組織検査にだせるしさらに子宮も残せるという判断で10日間入院し手術。
39才癌の疑いはなくなったものの生理がどんどん重くなり、もう全摘しかないので子宮の延命策ではありますが、ホルモン剤で半年ほど生理を止めて延命策をとりましょうといわれる。いずれは子宮を全摘出しなくてはならないのかと覚悟を決め始めるが、納得のいかない自分もそこにいるのを感じる。何故こんなことになったのか、どうして他の病には治療があるのに筋腫についてはほとんどのケースが全摘出になってしまうのか、それが納得いかなかった。
どのようにして皆、子宮をとってしまうことを納得していくのか、それが知りたいというのが心境だった。
子供をあきらめるということを子宮を全てとってしまうということで決着をつけるのはあまりに過酷な選択であり私には精神的なショックがありすぎるだろうと思われた。徐々に時がたってあきらめていくということと、臓器がないからあきらめるということはかなりの差がある。
解決策のないまま、友人に相談したり、本を読みあさったり気持ちだけ焦っていた。
40才インターネットで広尾クリニックと出会う。

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