「ステロイド、慢性疲労症候群、そして子宮筋腫」
レポートNo.29 

武石智香子(35歳)
●子宮筋腫の発見は6年前
筋腫が見つかったのは93年の春。下腹部痛があって婦人科を受診したところ、最大直径で約7センチの筋腫が見つかり、「子宮が本来の2倍の大きさになっている」と言われました。「経過をみましょう」ということだったので、ほとんど気にしていませんでした。

私は米国・ハーバード大学の大学院生で、米国で主に暮らし時々日本に帰ってくるという生活を送っていましたが、筋腫が見つかった当時は日本にいました。


●ステロイドの苦しみ
子宮筋腫が最初に見つかったのとほとんど同じ頃、まぶたの皮膚が腫れ、治りかけに固くなって目が開きにくくなってしまうということがありました。そこで近くの皮膚科にかかり、塗り薬をもらってつけ始めたのですが、これがステロイドの始まりでした。

塗り薬をつけているのに症状がどんどん広がり悪化していったことから、それが副腎皮質ホルモン、いわゆるステロイドではないかと疑いはじめました。それは、塗り薬を使い出して9カ月もたってからでした。心配になって医師に聞いてみたところ、薬の名前を教えてくれないばかりか、「あなたみたいに医者にものを言う患者は扱えない。お金は要らないから出て行け」と言われて、ひどく惨めな思いをしたものです。

ステロイドかもしれないのでもう薬を塗るのは止めようと思うのですが、止めてみると余計ひどくなってまた薬を塗ってしまう。その悪循環から抜け出せない状態が続きましたが、きっぱりと止める決心をしたのは、ステロイド克服の段階について書かれた本を偶然に本屋で手にとったことがきっかけです。そこに書かれていた症状が私の場合とまったく同じだったのです。

薬をいっさい使わないことにしたのは93年の12月で、クリスマスの頃には顔がぱんぱんに腫れて、いわゆるムーンフェイスになってしまいました。その後、黄色い汁が赤い顔から絶えず流れでて、夜の11時から2時頃まであまりの痒さに眠れない日々が続きました。


●ステロイドからの離脱
ステロイドによる症状は皮膚ばかりでなく全身に表れました。体が冷たくて、朝の7時に起きてからどんなに動いても、夕方4時頃まで人間らしい温かみを体に感じないのです。体内を何も循環していない感覚に加えて慢性的な便秘にも悩まされました。 その後、顔から出ていた黄色い汁は出なくなりましたが、代わって今度は病的なしわができるようになって、表情を変えたり瞬きをするだけでもパリパリするほどでした。

全て、ステロイド離脱期に経なければならない必要段階であるということを知らなければ、とても堪えられず、薬に戻ってしまったと思います。周囲も心配しますので、自信をもってやっていくことにもちょっと勇気がいるのです。でも、これらの症状はすべてステロイドの患者さんが書いた本で読んだ通りで進んでいきました。

ようやく本来の顔でないにせよ「人間並み程度」に戻ったのは94年の夏でした。この間のステロイドの経過については日記と写真に残してありますので、いずれ自分なりにまとめてみたいと思っています。

その年の8月には再び渡米。決して体調が万全であったわけではありませんが、人心地もついたし、勉強も一応手についていて、体調の着実な回復を感じていました。


●慢性疲労症候群」の始まり
ところが、95年の春、義母が入院したために一時帰国しました。飛行機の中から微熱を感じ、40日間、数日に一度だけの病院通いでしたが、ほとんど微熱が下がらず、風邪の症状が重くなったり軽くなったりを繰り返しました。義母が退院して病院通いが終わっても、電車に乗って駅を3つ、4つ行くだけでもう疲れてしまって、後で必ず熱が出てしまうありさまでした。それでもこれが病気だとは気づかず、単なる過労だと片づけていたのです。

95年の夏には米国内で短時間飛行機に乗っただけで、そのあと数週間微熱が続き、随分執拗な過労だと思いました。秋から冬、体調は最悪でした。秋は、週1回3時間の講義を受けるためにボストンの大学に出かけると、その翌2週間は微熱が出てしまいます。それでも意志の力を過信していた私は、体に鞭を打って勉強を優先していましたが、95年から96年の冬にかけては悪化する一方でした。


●植物のような日々
しまいには20分以上座っていることも、字を書くことはおろか一行の文章を読むこともできなくなりました。集中力が続くだけのエネルギーがないのです。冬には、とうとう毎日ただ寝ているだけという生活になってしまいました。不安が募り、病気であることを自覚して、ドクターに予約を入れました。これはれっきとした病気だから自分の健康回復を第一に優先する、と決めました。第一優先にして初めて、体の方も応えてくれて、それが回復への一歩となりました。

いま振り返ると、あれはまるで植物のような生活だったと思います。お日様の力と水だけで生きている植物のように、私も日なたに寝て、いい水を飲むことだけを心がけて一日を過ごしていたのです。生活をできるだけ改善し、考えつく限りのあらゆることを試してみました。そのひとつにハリと漢方もありました。

病院での検査では、血液検査や尿検査の結果には特に異常はありませんでした。これは「慢性疲労症候群」の特徴です。その段階で「慢性疲労症候群」というものを病気として認め、示唆してくれる先生に巡り会えればとてもラッキーなのですが、私の場合、残念ながらそうではありませんでした。アメリカでは、既存で解明されている検査数値の異常以外は異常として認めないことが多く、「日本では、自律神経失調症という言葉があるほど、医学は進んでいる」という書き方をする人がいるぐらいです。 隣の芝生は青く見えるものです。


●効果があったハリと漢方
ハリと漢方はすぐに効果があって、たちまち便秘は解消し、外出後の微熱の期間も除々に減ってきました。少しずつ、薄紙をはがすように回復してきて、96年の夏にようやく読書ができるようになりました。このときの嬉しさといったらありませんでした。本が読めない状態の辛さ、悲しさを味わったからこそ、本を読める喜びがひとしおだったのだと思います。

読書ができるようになって、慢性疲労症候群について書かれた本を読み、私の症状はおそらくこれだろうと思いました。慢性疲労症候群というのは、何らかの理由で免疫系が弱っているときにウイルスに侵食されると、慢性的に体内にウイルスがいる状態になる病気のようで、私の場合はステロイドが原因で免疫系が弱っているところに通院で風邪を引いたのが引き金になったのではないかと推察しました。風邪が引き金で慢性疲労症候群になる人が多いということも知りました。私もその一人だったのです。

後に書くように、広尾で手術をしたいという夢を持っていた私は、中国人のハリと漢方の先生に、帰国して手術が受けられるようになるまで体力を回復したい、その間筋腫の成長をとめたいと説明し、できるだけのことをして下さいとお願いしたのです。 そして、その通り、それから定期的に子宮筋腫のサイズを検査しましたが、それまでかなりのスピードで大きくなっていた筋腫が、ハリと漢方を始めてから成長が全くとまってくれたのです。


●広尾での手術に向けて体調回復
病院での検査時に婦人科にも回され、ここで超音波で筋腫が大きくなっていることが判明しました。最初に筋腫が発見されたのが93年の春ですから、ステロイドや慢性疲労症候群に苦しんでいた3年の間に、筋腫もどんどん成長していたことになります。

ドクターには手術を勧められました。保存手術をしてくれる、という話でした。いったんは「では年内に」ということになったのですが、夏に慢性疲労症候群の本を読んで、手術をすることは慢性疲労症候群を致命的に悪化させることを知り、これを理由に手術は延期したいと説明し、ドクターもこれを受け入れてくださいました。  と同時に、同じ保存手術をするにしてもぜひ広尾で、という気持ちもあったのです。 体力をつけて、日本に帰って斎藤先生の手術が受けられる状態になるのを待ちたかったのです。

広尾の斎藤先生のことは、筋腫の手術という話になってから、母や友人が送ってくれた資料で知りました。母は婦人雑誌の記事を手がかりに広尾に連絡をとり、当時の広尾の一連の紹介記事をコピーしてまとめたものを送ってくれました。私はそれらに目を通した段階で、斎藤先生の手術法の説明の明確さや哲学に強い感銘を受け、ぜひ斎藤先生の手術を受けたいと思いました。他の知り合いもパソコン通信を通じて過去の新聞や雑誌の記事を送ってくれましたが、その中に広尾についての掲載記事があることも私の目を引きました。

友人の知り合いに広尾で手術を経験した人がいることも分かり、国際電話をしてみると親切に教えてくれました。ですから、アメリカにいたころに、すでに頭の中では「ぜひ斎藤先生に」と思い込んでいたのですが、実際にはどんなペースでいつまでに帰国できるほど体力が回復するのか皆目見当がつかない状況でした。

先生にもしものことがあったり、急に引退されてしまったりしたら私はどうしたらよいのだろう、と不安でたまりませんでした。

ようやく体力に自信を取り戻して、帰国して広尾を訪れたのは98年の夏です。帰国して、翌日に美容院、翌々日、時差もまだ治らぬまま斎藤先生を訪ねました。あらかじめ、既に日本に居た連れ合いに予約を頼んでいたのです。資料から想像していた通りのユニークな先生でした。最初は反対した両親も、実際に先生に会ってみてMRIの説明などを受けると、「どうぞうちの娘をお願いします」ということになりました。そして、予約できる一番早い日を手術日に選びました。

アメリカでの不安な長い日々の末の手術ですから、今から思い出しても、先生がお元気でいて下さって、広尾で手術を受けることができて、本当に私は幸運だったという思いは人一倍強いのではないかと思います。


●「慢性疲労症候群」への周囲の理解の重要さ
いつかは治るはず、と信じて慢性疲労症候群と長い間つき合ってきましたが、植物状態の日々のなかで一番辛かったことは、常に活動し、目標を達成していくことに価値を置くアメリカ社会で、何ひとつできずにいることだったかもしれません。

フラストレーションばかり膨らんで、連れ合いについ当たってしまったりして迷惑をかけたこともたくさんありましたが、それも本によると病気の一環です。彼は私の努力を見ているうちに、だんだん理解を深めてくれ、精神的に支えてもらえるようになって感謝しています。

家事もずいぶん負担をかけてしましました。だいぶ回復してからも、食後は心臓の裏側が痛くて、後片づけに立てない私に代わって、彼が台所仕事をしてくれました。 彼の方にこそフラストレーションがたまっていたと思うのですが、4年あまりの間の私の状態をつぶさに見ていた連れ合いは、私にとってかけがえのないパートナーだという思いを強くしています。

「慢性疲労症候群」にとって周囲の理解はとても重要ですが、なかなか理解を得られにくいのも事実です。「慢性疲労学校」は、たとえその後2週間熱が出るとしても、この外出には価値がある、この人と逢って時を過ごすのはそれだけの意味がある、という覚悟で生活していく習慣を学ぶ学校です。そして、実際、友人と過ごす時間はたいてい覚悟しただけの価値はあるのです。

しかし、そこで「思ったより元気そうで安心した」と言われることには、やはり辛いものがあります。「思ったより元気そう」というのは、いかなる病気の患者に対しても禁句なのだそうですが、みかけは全く病気に見えない「慢性疲労症候群」の患者はその言葉に特に心を引き裂かれる思いがするものなのです。


●体験者の一言に励まされて
「風邪」と聞けば、くしゃみ、鼻水、鼻づまり、頭痛、発熱、咳、痰がでるのね、とわかるように、「慢性疲労症候群」(もっとよい名称に近いうちに変わるのではないかと思いますが)と聞けば、ああ、それは、何もできなくなって、生活に支障があって、社会生活は消えて、生きていてもただ家族の負担になるだけで、それで家族とも難しくなって、鬱病のようになって、死にたくなるのよね、と当たり前のように知っている人が一人でも増えるとよいと思います。

私には「慢性疲労症候群」になったことがある友人がたまたまいました。当たり前のように「ああ、私もその頃死にたかった」と言ってくれて、救われました。その友人が生きていてくれて私が今助かっているのだから、私も今は何の役にも立たないけれど、どうにか生きていかなければいけないな、と思ったのを覚えています。

その同じ友人が、婦人科の手術後のひと冬は難しいものだ、と教えてくれました。私は夏に手術を受けて、直後はとても順調だったのですが、暖房を入れる秋ぐらいから急に体調が悪くなって、苦労していたところだったのです。ステロイドの時もそうでしたが、経験者の話を聞いて、こういうものだと分かっているのといないのとでは、同じ体験でも主観的な辛さは全く違うものです。辛かったことを辛かったそのままに人に伝えていくというのは、とても大切なことだと思っています。


●戻ってきた免疫力
つい先週、ご多分に漏れずはやりの風邪を引いたのですが、いきなり38度以上の熱が出ました。すると、連れ合いが「快挙、免疫力が戻ったんだね」と言って一緒に大喜びしてくれました。いままでどんなに風邪を引いても老人のように37度前後の微熱しか出ず、したがって治るのに何週間もかかっていたのを横で見てくれていたからこそ、こうやって喜んでくれるのです。大変助かります。

他に劇的な変化といえば、食後に決まって表れていた心臓の裏側の背中の痛みが手術後きっぱりなくなったこと。座り続けているのがとても楽になってきたこと。緩慢ながら着実によくなっていることは、休めば確実に疲れがとれるようになってきていることでもわかります。

でも、博士論文に取り組むプレッシャーでそうそう休んでばかりもいられないのが辛いところです。やりたいこともたくさんあるのに、他人よりまだ疲れやすく、今は論文以外は身動きがとれません。その本業の方も今ががんばりどころなのに、まだ全く無理が利かず、思い通りにならないことにフラストレーションを感じそうになります。その度に「長い間かかって悪くした体なら、回復にもそれだけの時間が要るのは当たり前」という斎藤先生の言葉が浮かんできて、「そうそう、当たり前だ」と思います。


●最後に
私は本来大学院生ですが、私にとってここ6年の間は本業の大学院よりも、2年間の「ステロイド学校」、4年間の「慢性疲労学校」からのほうがより多くのことを学んだ気がします。残念ながらまだ手術後半年の現時点では、「慢性疲労」学校は卒業したとはいえず、「子宮筋腫の手術で全てが克服できました」とご報告できるまでにはあと2年ほど頂きたいと思います。

私がいま、できるだけ多くの方におくりたいメッセージは3つです。

  1. 本来怠け者でないはずなのに、なんだか最近ぐったりして力が出ないという方は、試しに子宮の疾患も疑ってみて下さい、ということです。実際、統計的にも「慢性疲労症候群」と一般に呼ばれる症状のある人は、女性が多いそうです。


  2. 過去何らかのホルモン関係の薬を使った人も、子宮のチェックは定期的にした方がよいかも知れません。


  3. 「経過をみましょう」といわれた皆さん、ぜひ気をつけて下さい。私もその時にすぐ処置をしておけば、ずっと簡単だったのです。その言葉は、子宮筋腫の患者に共通して言われる決まり文句です。実際には、経過を見てもどうにもならない、大概悪くなるだけなのだと分かったのは、斎藤先生のところで他の患者さん達と話をしてからです。多くの人が、経過を見ているうちに、手がつけられないぐらいに成長し、駆け込み寺のように斎藤先生に助けていただくことになります。


最後になりましたが、入院中は斎藤先生と看護婦さん、スタッフ全員が大変親切で、患者の身で不謹慎ですが、とても楽しい一週間を過ごすことができました。アメリカでは「日本に帰ったら、とにかくまず手術をして、それから日本の美味しいお魚を食べるのだ」というのが私の夢でした。その夢が、入院している一週間のうちになんと2つとも叶えられてしまうとは思いもよりませんでした。

広尾の皆さん、本当にありがとうございました。
術前(pre-ope)のMRI 術後(post-ope)のMRI 摘出物
術前のMRI 術後のMRI 摘出物
術前のMRI 術後のMRI


術 前(pre ope) 術 後(post ope)
赤血球(RBC)(x104/ul)458453
血色素(Hb)(g/dl)14.514.1
ヘマトクリット(Ht)(%)42.241.4
CA-1255925
備考
摘出物:
 子宮筋腫       510g
 内膜ポリープ     4g
   
病理:良性



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