「母娘二代でお世話になって、今は一児の母」
レポートNo.49

榎本志摩(30才)
●祖母も母も子宮筋腫
体験談レポートの48号で、母が「私、娘、妹がお世話になった斎藤先生との奇しき出会い」を書きました。私はその娘です。母をはじめ祖母、母の2人の叔母、そして母の妹(私にとっては叔母)と母方の女性は皆、子宮筋腫を患い、斎藤先生に出会った母と母の妹以外は全員が子宮を失っています。

祖母の時代には全摘手術しか方法がなかったのでしょう。でも、母は全摘後の祖母や叔母たちのようすを見て、自分はなんとか子宮を残す治療を受けたいと願って、大学病院をまわっていたようです。

母がレポートに書いているように、母が斎藤先生が手がける子宮保存手術という治療法を知ったのは、当時19歳だった私が母に「婦人画報」の記事を読むように勧めたことがきっかけでした。大学生だった私がどうして「婦人画報」の記事に目を止めたかというと、通学途中の電車の中刷り広告で子宮筋腫に関する記事が載っていることを知ったからです。その頃の母は顔色も悪く、生理になると寝込むことも珍しくありませんでした。

この点、広尾で手術した若い患者さんの多くが、子宮筋腫だとわかったときに「キンシュ? 初めて聞く言葉でした」と語っているのとは違って、私にとっては娘時代から子宮筋腫は耳になじみのある病気でした。


●23歳で内膜症と診断
そういう家系ですから、いずれ私も中年になれば「筋腫持ち」になるだろうな、とは思っていました。ところが、中年どころか20歳を過ぎる頃から生理の異常を自覚するようになりました。生理が始まると下腹痛がひどく、経血にドロドロしたレバー状のものが混じるようになり、出血量も並みではありませんでした。それが月を重ねるごとにひどくなるのです。

23歳の時にはじめて母に伴われてK大病院に行きました。ここの産婦人科に母が旧知の先生がおり、母自身も子宮筋腫の治療をここで受けていたことがあります。診断の結果は内膜症とのことで、「早く結婚して子供を産みなさい。そうすれば、よくなるから」と言われました。(独身の私に、そんなこと言われても…)と思ったものです。

K大ではホルモン治療を勧められましたが、勤務先の同僚にスプレキュアを使っている人がいて、副作用がいろいろとあることを聞いていましたので、これは見送りました。代わりに服用したのが漢方薬です。小田原の漢方医の処方で内膜症に効果のある漢方薬をしばらく服用しました。

たしかに初めのうちは症状が軽くなったのですが、そのうちにまた生理が重くなり、元の状態に逆戻りしていくのを自覚するようになりました。特に下腹痛がだんだんひどくなり、耐えられずにバファリンを1回に4錠も飲むようになっていました。


●声も出せない痛さ
母が広尾で手術をしているのに、なぜ最初から斎藤先生のところへ行かなかったのか、と思われる方もいるでしょう。決して斎藤先生の存在を忘れていたわけではないのです。母の手術の2年後には叔母も斎藤先生に子宮筋腫の手術をしていただいたので、この時には叔母を見舞い、病室で叔母の子宮から摘出したというゴツゴツした白い塊を見たのを覚えています。

そこで見た筋腫の塊の印象がよほど強烈だったのでしょう。そのうえ、母も叔母も子宮筋腫でお世話になっていますから、斎藤先生は子宮筋腫しか手術しないと思い込んでいたのです。それは母も同じでした。

そうこうするうちに、生理痛はますますひどくなりました。夜中に痛みで目が覚め、あまりの痛さに階下に寝ている母に助けを求めようにも声にならず、這うようにして階段を下りたこともありました。(こんな痛い辛い思いがいったいいつまで続くのだろう…。もうイヤだ。次の生理がこわい…)。考えるのは子宮のことばかりです。

私のそんな心理状況は母にも伝わっていたのでしょう。心配した母が斎藤先生に相談してくれて、内膜症も手術できること、そして手術によって子宮を残して完治することがわかったのです。


●早くラクになりたい
手術で治るなら一刻も早く手術したい、次の生理が始まる前に手術したい、と私の心ははやりました。一番早い検査日と、一番早い手術日を予約しました。解決の道が開けたからには、しかも母も叔母もお世話になった斎藤先生に手術していただけるのなら、とにかく早くラクになりたい。初めて母とK大病院に行った時から2年近くが経っており、迷いはまったくありませんでした。

MRIの画像をもとに説明を受けて、(やっぱり、悪いところがあったんだ。でなければ、あんなに痛いわけがない)と納得しました。納得というより、異常な生理の原因がはっきりして安心した、という方が正しいかもしれません。右の卵巣が腫れているのも画像で確認できました。

手術は平成7年の9月4日。摘出物は右の卵巣の一部1グラム、内膜ポリープ1グラム、子宮筋腫4グラム。合計量でわずか6グラムですが、これが尋常でない痛みと出血をもたらした元凶でした。筋腫の芽もていねいに取り除いてくださったそうです。放っておけば、母や叔母のようにリッパな筋腫に育ってしまうところでした。


●1年後に結婚
大空くんと志摩さん術後1年が過ぎた平成8年の11月に結婚しました。学生時代から付き合っていた彼と結婚しようという気持ちになったことと、手術によって正常な生理を取り戻したこととは無関係ではありません。

術後の最初の生理こそ少し下腹痛がありましたが、2回目以降は痛みも異常な出血もみごとに解消し、26日周期できちんと生理がくるようになりました。それは術後4年半が過ぎた今も変わりません。

結婚することになって、彼には「手術で子宮にメスが入っているので、もしかしたら子供はできないかもしれない」と告げましたが、彼は「子供がいなくても、2人で楽しい人生を送ればいいじゃないか」と言ってくれました。その言葉がどこかで心の支えになっていたのでしょう、私自身、妊娠や出産にそれほどの期待を抱かずに結婚生活を踏み出したのです。

結婚して4カ月ほど経った頃から、体調の悪い日が続きました。なんとなく食欲がなく、元気が出ない。そう言えば、26日周期で一日として遅れることのなかった生理が来ない。(きっと体調が悪いせいで、生理が遅れているのだろう)と思っていました。

生理が遅れれば妊娠を疑うところでしょうが、妊娠できるとは思っていなかった私は、それを(ひょっとしたら妊娠?)とは考えなかったのです。生理の遅れを気にして妊娠試験薬を買ってきたのは主人のほうでした。


●元気な男の子が誕生
大空くんの誕生日平成9年12月に長男、大空(そら)が誕生しました。妊娠中の経過は順調で、手術の時の傷口も小さかったからでしょうか、出産は自然分娩できるかもしれない、と出産した病院で言われていましたが、結局、逆子が最後まで直らず37週目に帝王切開で出産しました。

生まれたばかりの大空は過呼吸の症状が見られ、数日後には黄疸も出たため保育器に入りましたが、初めて保育器の中の大空に対面した時の感激はひとしおで、思い出すと今でも胸が熱くなります。帝王切開したお腹を気遣う看護婦さんに、「赤ちゃんを見に行きますか、どうします?」と聞かれた時には、這ってでも行きたいと思いました。

小さく産んで大きく育て、という言葉がありますが、2544グラムで生まれた大空はその言葉通りにすくすくと育って、今は体重15キロ。元気いっぱいな2歳児です。ひとときもじっとしていません。はだしで飛び出して、庭続きの祖父母の家に出没して、おじいちゃんに「大空、靴はどうしたの」なんて言われています。

妊娠がわかった時に、主人とこんなことを話しました。「もし、生まれてくる子が女の子だったら、きっとまた斎藤先生のお世話になるから、今から手術代を積み立てておこうか」と。もし大空の次にも子供に恵まれて、その子が女の子だったらと思うと、斎藤先生には少なくともあと30年はがんばっていただかなくてはなりません。先生、お体を大切にして、いつまでも子宮保存手術を続けてください。
術前(pre-ope)
のMRI
術後(post-ope)
のMRI
術前のMRI 術後のMRI


術 前(pre ope) 術 後(post ope)
赤血球(RBC)390450
血色素(Hb)(g/dl)10.312.8
ヘマトクリット(Ht)31.438.5
備考
長年の生理痛、生理過多、吐気、目眩

●病理  : 腺筋症


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