「情報収集に馳せ、新しい命を引き継ぐ」
レポートNo.5

F.T
■情報収集に駆け回った運命の宣告
8月1日。横浜港花火大会の日。
そして運命の宣告をされた日でした。

インターネットタウンページで産婦人科を調べ、少しでも安心できる所にと「母体保護法指定医」「横浜市ガン相談医」などと肩書きを当てにして病院を決めました。しかし診断の内容は残酷でした。
「どうするの。産むの、取るの。」10cm程の筋腫があるので流産するかもしれない。いずれにせよ子宮を取らなければならないのでこれが最後の子供だと。

混沌とした意識の中、問題を整理したら
  • 子供は生きている。確かにエコーに写っていて、心臓も動いていたと。
  • このままでは誕生の可能性は低い。
  • このままでは再び子供を授かる可能性は無い。
  • ここの病院ではどうにもならない。


そこで筋腫とは何か、情報収集に書店へ走りました。
どの本にも良姓の腫瘍で、多くの人が持っているとあります。ちょっと安心しましたが問題は大きさ。このままでは、お産に支障がある事を、しろうとなりに感じました。更に調べるために図書館に行くか、この足で大きい病院に行くか考えました。ふとインターネットで検索してみる事を思い付きました。

帰宅して調べはじめたら多くの人が苦労して悲しい目に会っているのだと解りました。様々なケースを見るうちに斎藤先生のページに巡り会いました。それまで読んだページの体験談から大病院という選択枝は外していましたし、直観的に「ここだ」と感じました。更に、広尾メディカルクリニックホームページの内容を読んで確信したのです。予約制という事で、いつ診てもらえるのか心配しましたが翌日診てもらえるというので夢のようでした。

その日の夜は横浜港花火大会には行けませんでしたが鶴見川のほとりから打ち上げられる花火を二人で観ることができました。遠くに見える小さい花火と対照的に大きな音だったのを覚えています。


■広尾メディカルクリニックでの診察
翌日、車で広尾メディカルクリニックに向かいました。MRIをとるようなので大きい建物をイメージしていましたからなかなか見つからず、やっと見つけた時は、正直びっくりしました。こじんまりしているものですから。
しかし中に入ってびっくり。病院というより別荘?ホテルのロビー? 仰々しい壁が無く先生はドアを開けっ放しにした部屋におられました。私は待たされるのかと思ったらどうぞと招き入れられました。

少しお話したあと、「じゃあエコーを」と軽く言われました。その診察台は、あの足を上げる分娩台ではなく普通のベッド。さらさらとプローブを動かされるたびに映像が大きなスクリーンに写しだされます。筋腫が3つは有る事、赤ちゃんは生きている事が分かりました。

斎藤先生は「このままでは流産する」とおっしゃいました。10cmで、びっくりしていたのが3つも有ったのではたまりません。手術について先生はあくまでも私達が決める事だという姿勢でした。だから金儲けでやっておられるわけではないと判断したのです。
術後は出産のため大学病院をご紹介頂けるとのこと。ご専門の治療に専念されて随所に合理的な面が見受けられた事も先生に委ねる固い意志決定をした理由の一つです。

手術をお願いしたものの彼女の親族の方々は、すんなり納得されたわけではなく、直前まで反対されていました。
どうしても大病院で診察をと言われて彼女は独り、市立病院に行きました。答えは「様子を見ましょう。」さらにはその病院で産んで産後に子宮を取ると。そこまで一貫でかかるのならまた来なさいと。

他の方の体験談にもあったことが我が身にもふりかかったのです。勿論、斎藤先生に手術をお願いするつもりでしたからショックは小さく、むしろ「やっぱり」という感じでした。

もし斎藤先生と出会っていなければ流産して子供を失い、更に子宮を取られ、完全に打ちのめされるところでした。こうしてやっと手術にこぎ着け、当日を迎えました。


■命の誕生という大仕事を引き継ぎたい
良い天気の中、ゆっくりと時間が流れて行きます。

2階のリビングで待っていましたら麻酔の先生が上がってこられました。どうやら終わったようです。もう一人若い先生が上がって来られました。3人で手術しておられたのかと思いましたら、よく見ると斎藤先生でした。 30前半に見えたのは先生のエネルギーでしょうか。
「大成功です。出産できますよ。」と声をかけて下さいました。まさしくブラックジャックだと感じました。

退院までは看護婦さんの皆さんにお世話になりました。2日目、持参したカーディガンのつもりがセーターで、かぶる事ができず近くのヨーカ堂で買ってきたものの面会時間を大幅に過ぎていました。翌日私は仕事ですから朝から来る事ができないので渡して貰おうと病院を訪ねましたがすでに鍵がかかっています。
インターホンでお願いしたら看護婦さんがこられて「どうぞ」と面会させて下さいました。本来は規則ですからいけないのでしょうが手渡せた事は何よりもうれしく、感謝しています。

赤ちゃんがおなかにいるので麻酔を沢山使えず痛みどめをお願いしたときは「もう少し頑張りましょうね」と励まして下さいました。お勧めのビデオも選んでもらったようです。痛かったでしょうが看護婦さん達に支えられて無事に退院できました。

退院直前は果たして自宅に戻って生活ができるのか不安がよぎるほどの体調でしか有りませんでした。周囲から、そんなに早く回復するはずが無いと言われたせいも有るのでしょうか。
しかし、この手記を書いている今は退院後2週間。普通の生活に戻っています。持病の痔が痛いことを除けば…。

子宮筋腫が有りながらもこの世に生を受けた命。
その命を救って下さった斎藤先生に感謝します。
そして、これから私達二人でその命の誕生という大仕事を引き継ぎたいと思います。

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HIROO MEDICAL CLINIC